〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第99回 水曜行動 in 新宿 サバイバーを記憶するー尹順萬さんの被害と人生 梁澄子
皆さん、こんにちは
私は、今日ここで韓国の日本軍「慰安婦」サバイバーの尹順萬(ユン・スンマン)さんについて、お話したいと思います。
尹順萬さんのこと、というよりは彼女との出会いによって私がどのように変わったのか、という自分自身の体験を今日はお話することになるかと思います。
私が尹順萬さんに初めて会ったのは、1992年3月のことでした。
生まれて初めて韓国を訪れて、そして生まれて初めて韓国の地で日本軍「慰安婦」サバイバーの方のお話を直接伺いました。彼女との待ち合わせの場所に行くと、とても小柄な瘦せた女性が立っていて、彼女のあとについて来いと言われて、後について彼女の家まで行きました。そこで見た光景が今でも忘れられません。
当時、韓国ではまだタルトンネと呼ばれる貧民街が残っていました。小高い丘の上に貧民街が形成されるのですが、行けば行くほど、つまりタル(月)に近づけば近づくほど貧しい人が暮らしていると言われていました。大きな石とかキムチの瓶をトタン屋根の上に乗せて屋根が飛ばされないようにしている、そんなバラックが果てしなく続いている丘(タルトンネ)をずっと尹順萬さんの後について行きながら、どこまで登るんだろうと思っていたところ、てっぺんに着きました。
つまり貧しい人が暮らす貧民街で、最も貧しい人が住むてっぺんに尹順萬さんは暮らしていました。こんな小さな今にも風に吹き飛ばされそうな小屋に住んでいるんだ、と思った次の瞬間、扉を開けたら、中に更に錠のかかった扉が3つもあったんです。つまりその家が尹順萬さんの家ではなく、その小さな小屋の中の3つの部屋の中の1つが尹順萬さんの部屋であり、家でした。ここで尹順萬さんは娘と二人で暮らしていました。
そこで聞いたお話によると、かぞえ13歳の時(日本で言えば、満で11歳か12歳の時)、家は裕福で土地も持っていた、そこに日本人がやってきて、祖父を殴ったそうです。これに対してとても勝気だった尹順萬さんは、それまで叔母さんと二人で隠れていたのに飛び出して、「どうしておじいちゃんを殴るんだ」とくってかかったそうです。
そしてそのまま尹順萬さんはトラックに乗せられてしまった。隠れていた叔母も見つかってトラックに乗せられ、一緒に日本に連れて来られたという話でした。
とても幼い頃の記憶なので、正確には覚えていませんでしたが、彼女の記憶によると、はじめは広島の紡績工場で働いていた、1年から2年経ったときにまた別のところに行くんだと言われて、朝鮮人の女の子たちだけが整列をさせられた。そして連れて行かれたところが、慰安所だった、ということです。
彼女の慰安所での話を聞いていて、とても特徴的なのは、とにかく抵抗し続けたということなんです。
たくさんの被害者の方のお話を聞く中で、初めは抵抗したけれど徐々に諦めさせられていった、という話をたくさん聞いてきました。
しかし尹順萬さんは、最後の最後までとにかく抵抗し続けた、だからなかなか自分を犯すことができない、犯す軍人はいなかった。とても小さくて貧弱な身体だったけれども、自分は必死に抵抗したというんです。腕をかんだり、耳にかみついたり、こんな風に抵抗した後、ある軍人に身体を押さえつけられて、左腕を捻じられてねじ伏せられます。
そしてパキッて音がした。次の瞬間、彼女は気を失ってしまいました。そして気が付いたときには、左腕が思うように動かせない、激痛が走る。そういう状態で、いくら助けを呼んでも誰も来てくれなかった。
曲がった左腕は、このように曲がった状態で固まっていました。そして肘が大きくはれ上がった状態のままもう固まっているんですね。
彼女は話すときに、ブルブル震えながら話しをします。本人の話ではあんなところに連れていかれ、あんなに怖い目にあったから、それから震えるようになってしまった、というお話でした。
私がお会いした時、動かない左腕を胸のあたりに抱えて、右手でたばこを吸い、右手で胸の動悸を押さえ、すべてを右手だけでやる、そういう状態でした。
戦争が終わって、朝鮮が解放され、やっとの思いで故郷に帰ったけれども、もう故郷の家はなく、両親もいない。こういう中で、障害を持って帰った彼女は、障がい者同士結婚したらどうか、と言われ、足に障害のある男性と結婚し、子どもを生んで暮らしましたが、障がい者夫婦が解放後の韓国でどれほど貧しい生活を送ったかということについては、想像に難くないのではないでしょうか。
そのことについてもいろいろとお話を聞きました。
私が会った時には、すでに夫は亡くなっていて、子どもの中の娘一人と暮らしていました。いまではそうではありませんが、当時の韓国の状況では、子どもがいるならば子どもが親を育てるべき、それであらゆる福祉の恩恵を受けることができないということでした。だから自分を支えて35歳にもなった娘が結婚もできないで工場で働きながら自分を養ってくれている、ここが彼女にとっては一番つらい、悲しい、そのことを言うときは全身をぶるぶると震わせて涙が止まらなくなる、という状況でした。
これが私の尹順萬さんとの最初の出会いだったのですが、当時、日本軍「慰安婦」問題というのが、この社会でどのように論じられていたのかについて、思い返してみたいと思います。
私が尹順萬さんを訪ねて行ったのは、1992年3月です。
その前の年の91年8月に金学順さんが韓国で名乗り出て、そしてその年の12月に日本で東京地裁に提訴しました。このことが世界中に配信されて、日本だけでなく、韓国でも、そして世界各国で「慰安婦」問題が報じられるようになりました。世論化されたのです。沢山の人が「慰安婦」問題について知る事になりました。
しかし日本国内ではその提訴というニュースを受けて、じゃあいったいどれくらいお金をあげればいいんだというような言説が私の周りでもふつうに聞かれていた時です。
私はそうではない。「慰安婦」問題は、女性の人権の問題であり、ここから教訓を学ぶことによって、再び戦争をしないようにすることもできるし、また朝鮮が日本の植民地にされた時代の歴史を学ぶためにも、この問題を学ばなくてはいけない、このことを日本社会に訴えるために実は、それまで行ったことのない初めての韓国に行って、2人の被害者の方にお話を聞いてきたんです。
しかしそのお二人の話を聞くことによって、とりわけ尹順萬さんの貧しい暮らし、動かない左腕と震え続けるあの姿を見て、私は、私自身が「慰安婦」問題を全く分かっていなかった、ということに気付かされました。歴史を学ぶための教材だとか、私自身が日本で在日朝鮮人の女として生きがたく思っていることを訴えるためだとか、そういう風に頭でっかちに考えていたことがどれほど罪深いことかが気づかされたのです。
尹順萬さんとの出会いの時から、この問題との向き合い方を問われた思いで、気持ちを新たにして今日までこの運動に関わってきました。そして数年後、尹順萬さんを訪ねました。今度は、貧民街のてっぺんではなくて、マンションのてっぺんに住んでいました。
韓国では、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)という団体が結成され、被害者たちが、解放後に韓国に戻ってきた後も、日本軍の「慰安婦」にされたが故に尹順萬さんのように、身体と心に傷を負ってその後も貧しく生きてきた、そういう方があまりにも多いので、挺対協は韓国政府に働きかけて被害者支援法を1993年に制定することに成功しました。韓国政府はこの被害者支援法に則って日本軍「慰安婦」被害者に一時金を払い、そして毎月支援金を送っていきました。
さらに被害者が住む各自治体にも働きかけて様々な支援策、医療支援とか介護支援とかを行うように挺対協が働きかけて実現させてきました。その結果として尹順萬さんは、マンションのてっぺんに娘と一緒に暮らしていました。しかもその娘が工場で働くのではなく、尹順萬さんの介護人として認められて自治体から給与をもらいながら、年老いた母親の面倒を見るということができる、という政策に変わっていました。
そのようにいくらお金を出せばいいんだ、という認識しかなかったこの日本社会でしたが、韓国政府と韓国の市民団体は、この間被害者たちに対して、支援金を送りながら、また支援団体が現実にケアをする、というようにこの間、被害者たちはサポートを受けてきました。
じゃあ、日本政府はこの間に、いったい何をしたのでしょうか。
「日韓合意」や和解癒し財団のお金が必要だったのではないんだということが、皆さん、わかっていただけたと思います。
彼女たちは、お金が欲しいとは言いませんでした。初めて会ったとき、あの貧しい環境でさえも、お金が欲しいとは私に言いませんでした。
「何を望みますか」と聞いたときに、尹順萬さんは、「昔の娘時代に戻してほしい」といいました。他の被害者の方たちも皆同じです。娘時代に戻って他の人と同じように、ふつうに結婚をして普通に子どもを生んで、普通の生活をする、そういうことを求めていました。
しかしそれはかなわないことです。
では、日本政府は何をするべきなんでしょうか。
まずそのような加害を日本軍が行ったということを具体的に認めて、彼女たちにそのような加害行為を行って申し訳なかったと心から謝罪をしてそれに伴う賠償をする、そういうことが日本政府に36年もの間求められ続けてきたのに、日本政府はついにそれをしないまま、韓国だけでもすでに生存する被害者は5人ということになっています。
尹順萬さんも2021年に亡くなりました。私たち日本市民は、その事実を重く受けとめて、日本政府がこの事実を日本社会全体が記憶していけるように、そしてそれを記憶することによって、被害者たちが望んだ平和な社会をつくっていくことができるように、私たちは日本政府に対して、引き続き働きかけないとならないと思います。
皆さんに是非、一緒に闘っていただきたいと訴えて、お話を終わります。
