今日、ご紹介するのは(拉孟で発見された妊娠しているお腹に手を添え崖によりかかっている拡大写真を示し)この写真の一番、右、大きなお腹を抱えて、素足で、つらそうに写っている朴永心(パク・ヨンシム)さんの証言です。



撮られた時期は、敗戦の1年前の19449月、場所はビルマとの国境にある中国の拉孟という場所です。ここは、日本軍が、中国軍とアメリカ軍(連合軍)と死闘を繰り返した最前線の戦闘地です。日本軍は、空から爆弾が降りそそぐ、こんな危険なところにも慰安所を作ったのですね。ついに、日本軍は、弾薬も食料も尽き果てて玉砕しました。玉砕と言うのは、きれいな玉のように砕け散る、つまり全滅したことを美化した言葉です。当時は「戦陣訓」によって「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になることを禁じていたからです。日本兵は、最後に壕の中で、手榴弾や青酸カリなどで自ら命を絶ち、一緒にいた朝鮮人「慰安婦」もその壕では2人犠牲になりました。その時、4人の「慰安婦」が「生きよう!」と壕から飛び出したのです。勇気ある4人の中に朴さんもいました。その貴重な写真です



19211215日生~20068月7日逝去(85歳)

朝鮮民主主義人民共和国(平安南道南浦市

連行年(年齢):19398月(17歳) 

連行先:中国(南京・拉孟)、ラシオ(ビルマ)

 


では、朴さんの証言を中心に紹介します(ゴシック部分が朴永心さんの証言部分です)。時々、私の感想を挟ませてください。

 


「私は1921年、朝鮮に産まれました。すぐに母が亡くなり、まもなく父が再婚して二人の妹ができ、家の中に私の居場所がなくなったようで、孤独でした。貧しくて学校にも行かせてもらえず、14歳になると洋品店に奉公に出されました。



1939年、17歳の時に、洋品店に来た日本人巡査に「お金が儲かる仕事がある」と言われ、私は「お金が儲かる」という巡査の言葉に心が動かされ、騙されてしまったのです。


 平壌駅にはすでに十数名の女性がおり、私たちは憲兵に引き渡され、有蓋貨車に押し込められました。「騙された!」と気がついたが、もう遅く、憲兵の監視が厳しく、到底逃げることはできなかった。途中トラックに乗り換え、中国の南京市にある日本軍の慰安所「キンスイ楼」に連れて行かれました。」



巡査は官憲ですから「河野談話」のいう「官憲の直接、加担」に当たりますね。「だます」は、暴力による拉致より罪が軽いと思われますが、だます方が簡単で、他の例では、一旦集められた家にはカギがかけられ、朴さんのように、列車に乗れば、即、監視が付き、逃げられない、実質は強制連行なのです。(実際は発言しませんでしたが、刑法226条でも醜業条約でも暴力と詐欺は同じ条文にあり、同罪です。



226条: 国外に移送する目的で、人を略取(暴力・脅迫で連行)し、又は 誘拐(だまして誘い連行)した者は、2年以上の有期懲役に処す」)

 


「キンスイ楼には20数名の朝鮮人の「慰安婦」がいて、慰安所を管理していたのは日本語の上手な朝鮮人夫婦だった。到着するや、私は2階の19号室に入れられ、日本の着物に着替えさせられ、「歌丸」と名付けられた。昼は兵隊が押しかけ、夜になると将校がやってきた。あまりにも恐ろしくて抵抗したけれど、言うことを聞かないと常に殴るけるの暴力を受け、時には「生意気な女だ」と軍刀で脅され、今でもその時の傷跡が頸に残っている。


 日本兵は乱暴で、獣のようで、ここから逃げようと思っても監視が厳しくできません。言うことを聞かないからと拷問部屋(屋根裏部屋)に閉じ込められ、食事ももらえず、全裸で体罰を受けました。悔しいけれど、あの時は言うことを聞くしかなかったのです。拷問部屋から遠くで汽車の汽笛の音を聞くと「あれに乗れば、故郷に帰れる」と涙があふれました。」 

 


朴さんはここに4年いました。朴永心さんが入れられた南京市の「キンスイ楼」の建物に、私は以前、行ったことがあります。3階建で、いくつかの建物が隣り合って建てられ、合わせれば広大な屋敷です。今は「慰安婦」展示館になっています。

 


さて、朴さんは、なぜ、南京に連行されたのでしょうか。

 

 それは、193777日(7が続くので覚えやすい)、中国の盧溝橋で日本軍・中国軍が小競り合いになり、双方、収めようとしたのですが、中国侵略の好機とばかり、日本は軍隊を大量に派遣し、19371213日には南京を陥落させた。この前後の残虐な日本軍の行為は、捕虜や民間人も大量に虐殺した「南京大虐殺」、多数の女性に性暴力をはたらき「南京大強かん」と非難され、皆さんも聞かれたことがあると思います。



その1年後には、20万の兵力を派遣して、この中支那に駐屯させたというのです。つまり、そうした軍の作戦に従って、派遣された兵隊のために大量の「慰安所」が設置され、「慰安婦」が大量に集められ連行されたのです。正に「従軍慰安婦」という用語は正しいのです。朴さんは、その見本のような被害者です。 


 

実は、政府は、2021年に教科書に記載されている「従軍慰安婦」という用語は不適切だ、ただの「慰安婦」と書くように決めて、文科省は教科書会社に強制しました。「慰安婦」が「軍」と直接関係があることを一般市民に知らせないようにしたのです。そう書いてあるものは検定不合格とするのです。戦前と同じことですね。学問や教育に介入し、国民をマインドコントロールし、戦争に突入していった過去の過ちを繰り返さないようにしなくてはと思います。

 


    朴さんの証言に戻ります。


1942年初夏、私たちキンスイ楼にいた「慰安婦」22名は管理人に連れられ、上海の港から大きな船に乗せられました。その船には同じような女性が数百名も乗っていて、本当に驚いた。船は船団を組んで、南方に向かい、何日も何日もかけて(シンガポール経由)ようやくビルマのラングーンに到着した。

 私たちは船から降ろされると、230名ずつのグループに分けられ、私は、ビルマのラシオの慰安所「イッカク楼」に連れて行かれました。その慰安所もまた、朝鮮人の女性ばかりだった。皆、「ハルエ」「キヌエ」等の日本名を付けられており、この時から私は「若春」と呼ばれ、2年間生活しました。」

 


では、なぜ、朴さんたち数百名もの「慰安婦」がビルマに連行されたのでしょう? 


もう、お分かりのように、南京と同じですね。1941128日、日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入しました。そして、石油などの資源を求めて東南アジアを侵略し19423月、ラングーンを陥落させた。彼女たちが到着したのは、その年の初夏でしたね。つまり、日本軍の南方侵略拡大とともに、大量の軍隊が駐留し、それに従ってたくさんの慰安所を作り、たくさんの「慰安婦」が必要となったからです。

 


2年後の1944年のある日、私たちはトラックに乗せられ、日本軍(中国雲南省「拉孟」(ラモウ)に駐屯している第56師団、拉孟守備隊)がいる松山(拉孟陣地)に連れて行かれました。でこぼこの山道を走り、ようやく着いた高い山の上にある陣地は山の中なのに、周りは鉄条網が張り巡らされ、到底逃げ出せるようなところではなかった。そうして、こんな山の中で日本兵の相手をさせられる日々が始まったのです。」

 


「松山(拉孟陣地)に来てしばらくすると中国軍の爆撃が始まりました。陣地は爆撃で壊され、私たちは追い詰められ、日本兵と一緒に大きな壕に隠れていたが、ある日、日本兵が自決すると話しているのを聞いて、隙を見て他の3人と一緒に壕を飛び出したのです。崖を下り、水無川を渡って逃げようとしたが流れが強く、渡れないまま隠れているところを中国・米国軍(雲南遠征軍)に発見されました。」

 


■ 永心さんたちが拉孟守備隊に来た頃はまだ中国軍の反撃前であったが、そこは、最前線の戦場でした19445月に中国の軍隊がアメリカなどの連合軍と一緒に反撃を開始したのです。拉孟陣地は包囲され、補給も完全に絶たれました。食料も弾薬もなくなり、砲撃により多くの日本兵が死傷し、「慰安婦」たちも犠牲になりました。

 


100日にわたる戦闘中、雨期に見舞われ、アメーバ―赤痢やマラリアでも死傷者続出し、ついに1949月、陣地に身を潜めていた日本兵は毒薬や手りゅう弾で自決しました。ここにいた「慰安婦」も日本兵の自決の巻き沿いになったのです。この時、自決を拒み、壕から飛び出して逃れた4人の朝鮮人「慰安婦」たちがいました。その中の一人が朴永心さんです。さっきの写真の4人です。中国軍の捕虜となって、助かったのです。

   


ここで、私は、強く印象に残った話を紹介します。拉孟の全滅の生き残り兵、早見さんの証言です。彼の話を聞いた研究者、金栄(キム・ヨン)さんの本から紹介します。



早見さんの証言です。


「決して忘れられない出来事として何度も語っていることがある。補給も途絶え、孤立無援の戦いを展開していたある日、朝鮮人「慰安婦」たちがおにぎりを作って差し入れてくれたことだ。既にコメも乾麺もなく、魚の缶詰を煮て握ったものだった。それを二人一組になって夜中に各隊に運んできてくれたのだった。「彼女たちも一緒に戦ったんです」と、早見氏は感慨を込めて証言しています。

 


私が感動したのは、この言葉ではありません。



彼は、続けて、「しかし、日本が負けたと知ったときから、あの人たちは豹変しました。収容所で敗戦を知った時のことである。今まで、親しげに接していた朝鮮人「慰安婦」らの態度がその途端に、よそよそしくなったのだ。」と、頭をかしげたというのです。


 皆さんは、なぜか、お分かりだと思いますが、なぜでしょうか? 


栄さんは、こう言っています。


解放された今、勝手に日本軍に引っ張っていかれ、暴力と強かんと砲弾の中に放り出されたことへの怒りが噴出したとしても不思議ではない。そうした朝鮮人「慰安婦」の胸の内を、日本兵が理解することはなかったのです」と。

 


私が強く打たれたのは、「朝鮮人「慰安婦」が豹変した」ということです。

 

韓国の朴裕河という学者が『帝国の慰安婦』という本に「朝鮮人慰安婦と日本人兵士とは同志的関係だった」と書いていますが、その反論として、「豹変した「慰安婦」」という、これ以上の事実はないでしょう。その学者は、結局のところ「日本の法的責任はない」と述べていて、これまで多くの被害者の証言を聞いてきた私たちはとうてい賛成できません。

 

    

● 最後に、朴さんに戦後の生活を簡単に語ってもらいましょう。


19459月頃、捕虜収容所にいた私たちは、そこで韓国光復軍に引き取られて、7年ぶりに夢にまで見た朝鮮の故郷に帰ることができました。朝鮮戦争が終わり、縁あって結婚したが、こどもはできなかった。しかし、日本軍の「慰安婦」にされたことは夫に話すことはできず、ましてや日本軍の子どもを妊娠したことは誰にも話すまいと強く心に決めていた。夫は優しい人で、養子をとり、その後、夫に先立たれたが、わが子と思い懸命に育てて生きてきました」

 


朴永心さんは「辛い思いをするのになぜ、証言をするか」を語っています。それを知って終わりにしたいと思います。

 


1992年に南朝鮮の被害女性が名乗り出たことを知り、翌年、私も「恨(ハン)」を晴らしたいと名乗り出たのです。(「恨・ハン」というのは、単なる相手への「恨み」だけでなく、自分の無念さや悲哀など、長年、胸の奥に積み重なった複雑な塊だと昔聞きました) 

50年以上たった今も、黄色い服を着た日本人に追いかけられたり、首を絞められる夢を見てうなされます。話すたびに悪夢がよみがえり苦痛と憤りがこみあげる。


それでも、なぜ話すかと言えば、二度とあのようなことがおこってはならないと思うからです皆さんに期待して、私はつらい話をしました。次に会うときは私の願いが叶うときに会いたい。私の願いはただ一つ、日本政府に『私が死ぬまでにのです。」と。 



朴永心さんは、2006年、85歳で亡くなられました。日本政府は「強制連行はしていない、性奴隷ではなかった」と大ウソを「外交青書」にまで載せて世界に拡散し、国連などの度重なる勧告も無視して、いまだに、心からの謝罪や当然の賠償をしていません。朴さんの「死ぬ前に謝罪し補償してほしい」という願いは叶えられなかったのです。

「皆さんに期待して、つらい話をした」と言われています。そうならば、証言によってつらい非人道的な「慰安婦」の事実を知った私たちは、朴さんの期待に応えなくてはなりませんね!


 期待とは、二度と繰り返さないこと(戦争しないこと)と謝罪し補償することの実現です。



朴さんだけでなく、慰安婦」被害者の思いは同じです! 被害者の遺言を実現しましょう。相手は手強いですが嘘つきです。正義は私たちにあります。(坪川宏子)