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[インタビュー]

「オレの心は負けてない」宋神道ハルモニに寄り添った梁澄子・希望のたね基金代表

女性新聞 キム・セウォン記者

入力 2025.12.27 07:00

修正 2025.12.29 14:42

 

日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表、一般社団法人希望のたね基金代表理事の梁澄子さん、宋神道ハルモニなど日本軍「慰安婦」被害者支援 希望のたね基金を通して日本の若い世代に歴史を知らせる



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梁澄子・希望のたね基金代表は1992年から2017年に宋ハルモニが亡くなるまで、彼女を物心両面で支え、日本軍「慰安婦」問題の実相を知らせるために闘ってきた。ソン・サンミン写真記者

 


 「裁判には負けても、オレの心は負けてないから」

 19934月、在日の「慰安婦」被害サバイバーである宋神道ハルモニ(1922~2017)は日本政府を相手に謝罪と賠償を求めて訴訟を起こした。10年間の法廷闘争が繰り広げられたが、20033月、最高裁判所は上告を棄却、宋ハルモニは敗訴した。しかし宋ハルモニは敗訴判決に屈することなく、「心は負けてない」と堂々と叫び、多くの人々に感動と慰めを与えた。



 1922年、忠清南道論山で生まれた宋ハルモニは、16歳になった1938年、結婚するのが嫌で家を出て働いていたところ、「戦地に行ってお国のために働けば結婚しなくても独りで生きていける」という言葉にだまされて中国に連れて行かれた。その後、中国各地を転々としながら7年間、日本軍「慰安婦」生活を強要された。解放後「結婚して一緒に暮らそう」という日本軍人にだまされて1946年、日本に渡ったが捨てられて余生を日本の宮城県で送った。



 宋ハルモニの情報は、ホットライン「慰安婦110番」に匿名の人物から寄せられた。その後、19931月に宋ハルモニを支援する「在日の慰安婦裁判を支える会」が発足。同団体の活動家たちは法廷闘争が続く10年間、彼女に寄り添った。梁澄子・希望のたね基金代表もその一人だ。梁代表は2017年に宋ハルモニが亡くなるまで、彼女を物心両面で支援しながら日本軍「慰安婦」の実相を知らせるために闘ってきた。



 梁代表は、宋ハルモニが他界した後も今日に至るまで、「慰安婦」被害者の名誉回復のため活動を続けてきた。最近、韓国を訪れた梁代表は、女性新聞とのインタビューで「宋神道ハルモニと出会って人生が変わった。ハルモニのおかげで多くを学び、充実した人生を生きることができた」と述べ、「生きている限り全力を尽くして宋ハルモニからもらったものを次世代に伝えたい」と抱負を語った。



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宋神道ハルモニの生前の姿 聯合ニュース

 


尹貞玉代表の講演を契機に「慰安婦」問題解決運動に飛び込む

 梁代表が日本軍「慰安婦」の実態を知らせる活動を開始したきっかけは199012月、日本で開かれた尹貞玉・韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)初代共同代表の講演を聞いたことだった。講演の翌日、在日同胞女性たちと尹代表の懇談会が開かれ、梁代表はその席で17名の在日同胞たちと共に「慰安婦」問題を知らせていく決心をする。そして翌年、「従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク」を設立、金学順ハルモニを招いて証言集会を開催した。金学順ハルモニ(1924~1997)は「慰安婦」被害の事実を韓国で最初に証言した人で、199112月、日本政府に補償を求めて提訴した。



 金学順ハルモニの勇気は数多くの被害者が沈黙を破ってカミングアウトすることを手助けしただけでなく、国際社会にも「慰安婦」被害者の実相を知らせる上で大きな影響を及ぼした。当時挺対協の「挺身隊申告電話」のように、日本にも日本軍「慰安婦」申告電話が設置されたのだが、ある匿名の情報提供者が宋ハルモニの情報を寄せてきたことから、梁代表ら活動家たちが宋ハルモニと出会うことになる。



 「宋神道ハルモニを知っているという、匿名の方からの電話があったんです。その電話を受けて、川田文子さん(作家で日本の戦争責任資料センター元代表、裴奉奇ハルモニの支援をした人)がハルモニを訪ねて行ったんです。金学順ハルモニのニュースを見て関心を持っていたようで、『来たか』という反応だったそうです。川田さんによると『裁判をしたいんですか』と尋ねると『したい』と言ったり『したくない』と言たり、発言が変わり続けるということでした。そこで、同じ在日同胞ならハルモニの気持ちが理解できるのではないかということで、裁判に対する本音を知るために弁護士と一緒にハルモニを訪ねて行ったんです」



 しかし、心の傷ゆえに固く閉ざされた宋ハルモニの心の扉を開くことは容易くなかった。「私を見るやいなや『お前が朝鮮人か。オレは朝鮮人は嫌いだ』と言ったんです。『辛いものが好きか』というので、『好きだ』と答えると、『朝鮮人は辛いものばっかり食ってるから頭が悪いんだ』という調子でした。日本人に無視されるのも悔しいけど、同じ朝鮮人同胞が自分を助けてくれなかったという事実に腹を立てていて、同胞を見るとそういうことを言ったんだと思います」



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梁澄子・希望のたね基金代表が女性新聞とのインタビューで「宋神道ハルモニに出会って私の人生は変わった。ハルモニのおかげで多くを学び、充実した人生を生きることができた」と述べ、「生きている限り全力を尽くして、ハルモニからもらったものを次世代に伝えたい」と語った。ソン・サンミン写真記者

 


2017年に宋神道ハルモニが亡くなるまで寄り添って

 3日間あいづちを打ちながら傾聴する梁代表の姿を見て、宋ハルモニの心の扉も少しずつ開き始めた。しかし宋ハルモニはその後も、裁判をするのかどうか、発言を翻し続けた。その過程でメディアに在日朝鮮人の「慰安婦」が日本政府を相手に訴訟を起こすという記事が載った。梁代表は「ハルモニに『記事が誤報なのか事実なのか発表しなければならない、もう本当に決めなければならなくなった』と伝えたら、『やる』と言った。そこで翌日、記事の内容は事実だという記者会見を開くことになった」と説明した。



 「19934月、訴状を出す前に、ハルモニの家に行って、訴状の被害部分を最初から最後まで読んで聞かせました。間違ったところがないか確認してもらうためだったのですが、ハルモニは訴状にない話までし始めたんです。特に『結婚したくないのに母親が見知らぬ男と結婚させようとしたために、恐くて逃げだして、だまされて連れて行かれてこんなことになった』と、母親のせいにしていました。性暴力の被害者によく現れる症状なのですが、加害者よりも自分の身近な人を怨むんです。ハルモニがとても可哀そうに思えました。母親についてずっと話すのもそうでした。もしかしたら自分の話を黙って聞いてくれる人、黙って受け入れてくれる人を待っていたんじゃないか、そんな気がして、ハルモニの話を黙って聞く人になりたいと思いました。それで最後まで行くことになったんだと思います」



 宋ハルモニを支える過程で梁代表の人生も変わった。彼女は「尹貞玉先生のお話を聞いたことが『慰安婦』問題に関わるきっかけではあったけれども、在日同胞女性たちと話し合いながら、『慰安婦』問題というのが私自身とも関連する問題だと思った」とし、「植民地支配ゆえに『私という存在』(在日同胞)が日本で育ったからだ。また、在日同胞社会も男性中心社会だった。だからこの問題を通して在日同胞として生きる中で感じた生き難さや植民地支配が生んだ問題、女性の人権問題を訴えることができるのではないかと想像していた」と言う。



 そして「けれどもハルモニに出会って『慰安婦』問題を通して私自身の問題を訴え解決しようと考えていたことが恥ずかしくなった」と述べ、「宋ハルモニを通して『慰安婦』被害者が経験した被害と苦難は普通の生活をしてきた私には分かりえないものなのだということを知った。被害者が経験した被害を完全に理解することはできないという事実を認めることも重要だ」と強調した。



 「宋ハルモニがなぜこのような言動をとるのか理解できないことがたくさんありました。活動家たちが集まって『ハルモニは実はこんなことが言いたかったのではないか』と解釈してみたり、外傷後ストレス障害(PTSD)に関する本も読んでみたりしましたが、結局、分かりえないということに気づきました。宋ハルモニに出会って得た最も大きな学びは、私たちには被害者のことは分かりえないということを認めた上で、分かるために努力することが運動なのだということでした」


 

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梁澄子・希望のたね基金代表が今年9月に韓国語に翻訳された本オレの心は負けてない(在日の慰安婦裁判を支える会編・金民花訳、ボーダーブック)を持っている。ソン・サンミン写真記者

 



「日本の若者に日本軍『慰安婦』問題を知らせたい」……2017年、希望のたね基金を設立

 2003年に敗訴が確定したが、歴史の真実を知らせるための歩みは終わらなかった。宋ハルモニと梁代表をはじめとする「在日の慰安婦裁判を支える会」の活動家たちの10年に及ぶ闘いは2007年に書籍『オレの心は負けてない』にまとめられ、同じ年に同名のドキュメンタリーも製作された。『オレの心は負けてない』は今年9月、18年を経て韓国語でも出版された。「在日の慰安婦裁判を支える会」は宋ハルモニが亡くなった後、「宋神道さんの思いをつなぐ会」と団体名を変えて活動を続けている。



 梁代表は、日本の若者に日本軍「慰安婦」問題を正しく知らせるため2017年、希望のたね基金(キボタネ)という団体も設立した。キボタネは若者ツアーというプログラムを通して韓国を訪問し、若者たちに交流と連帯の場を提供している。若者たちは水曜デモにも参加する。当初、梁代表と同世代の活動家たちが集まってつくった団体だったが、韓国や歴史に関心を持つ若者たちが一人二人と集まってきて、今では若い活動家たちの方が多い団体になった。梁代表は「最近は若者団体代表の梁澄子と自己紹介している」と笑った。梁代表は今後も力の限り韓国と日本の若い世代に歴史を知らせていくつもりだ。



 「『慰安婦』被害の実態を知らせる活動家になるとは思ってもいませんでしたが、宋神道ハルモニと出会って人生が変わったことを思うと、おそらくそれが私の運命だったんだと思います。ハルモニと出会って充実した人生を生きることができました。これからは若者たちに仕事をある程度任せて、歴史の証言者になろうと思っています。サバイバーに直接会えない世代が『慰安婦』問題を記憶し継承することは難しいことです。生きている限り、全力を尽くして宋ハルモニからもらったものを次世代に伝えたいと思っています」