今日は中国山西省の性暴力被害者ではなく、南京大虐殺で性暴力被害に遭われた朱秀英さんの話をしたいと思います。


その前に、ノーモア南京の会で、1211日「忘れてはならない記憶がある、南京大を虐殺から88年 東京証言集会」という催しありましたので、その報告をします。


ノーモア南京の会は1997年から毎年12月、証言集会を開催してきて、今年で29回になりました。10年前くらいまでは、南京から生存者をお招きしていましたが、亡くなったり、高齢化してからは遺族の方に来ていただいていました。コロナのことがあって、ここ数年は誰も来られなかったのですが、6年ぶりに遺族のかたが来日されることになったのですが、高市首相の「台湾有事」発言のため来日は取りやめになりました。予定していた曹玉莉さんの証言はビデオに替え、今話題になっている「豹変と沈黙」の監督、原義和さんに60分の講演をいただいて開催しました。130人の参加がありました。

 

朱秀英さんのお話をします。

朱秀英さんは2001年 南京から来日して証言された方です。南京に侵入してきた日本兵にわずか9歳で強姦されています。当初仮名で証言の予定でしたが、大阪で「南京事件はなかった。中国人のでっちあげだ」などと右翼の人たちの街宣行動をみて、我慢がならなくなり記者会見をして、本名で証言をされました。


1937年の77日、盧溝橋事件を引き起こした日本軍は、中国侵略を全面化し、8月には上海に上陸、11月上海を陥落させると、首都南京へと攻略を進め、1213日に南京は陥落しました。

 

日本軍はいわゆる三光政策、殺しつくし、奪いつくし、焼き尽す そして強姦を各地で繰り広げましたが、南京大虐殺はその最たるものでした。 

朱秀英さん一家は6人で、南京の建鄴路というところに住んでいまし

た。



以下、2001年の朱秀英さんの証言です。



写真出所:https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_7086770


「私の家は染め物屋と甘酒を売る商売をしていました。 8月から空爆が始まり、12月いよいよ南京に日本軍が迫ってくると聞いていました。お金や伝手のある人はどんどん地方へ避難していきましたが、私たちのような貧しい人間は逃げることもできず、南京にとどまりました。

  


日本鬼子(りーべんくいず・日本の鬼たち)が来るというので、私たちは恐ろしくて家から出ることはできませんでした。近所の人たちの「キャー」と叫んで殺されていく声が家にいても聞こえました。



私はこの日、祖母の家にいました。大人たちは家の中にいたのですが、私は「お母さん、どこにいるの」と母親の姿を求めて外に出ました。大人たちもパニックに陥っていました。日本兵はズカズカとどの家にも入り込んできました。彼等は若い娘を探していたのです。私は一度日本兵に見つかってしまいましたが、近所のお婆さんが、とっさに「その子は私の孫だ」と言ってかばってくれたので、その時は助かりました。


2階建ての建物の中は、上にも下にも至るところ日本兵が湧いて出てきたように溢れていました。彼らが何を言っているのか分かりませんでしたが、明らかに獲物(女と金目の物)を求めて街を荒らし回っていたのです。


私たちは長い間隠れていましたが、ある年配の男性が「自分が日本兵を騙してどこかにつれていくから、その間に身を隠せ」と言ってくれました。この人のおかげで、私たちは、その場から逃げて、身を隠すことができましたが、その人は戻ってきませんでした。


  このようにして逃げ出しはしたけれど、このままでは死を待つばかりなので、みんなで相談して 南京国際安全区という難民区に避難することにしました。


9歳の子どもの私にも、私たちがどういう困難な状況であるか、おぼろげながら分かりました。避難する時、特に若い女性は強姦を避けるため、かまどの煤を顔に塗り、服の袖とか胸のあたりを破いて裏返しにしたり、袖をまくったりして、乞食のような格好で避難しました。


街なかは日本兵がすでに群れをなしていました。私たちは時には、同胞の中国人の死体を踏みながら、難民区まで歩いて行きました。難民区は、これ以上入れないのではないかというほど、多くの難民であふれていました。


若い女性は、金陵女子大学に避難しました。私の家は貧しかったので難民区に身を寄せるしかなかったのですが、そこに叔母が赤ん坊を連れてきていました。その赤ん坊の子守りをする約束で、叔母からわずかばかりの食べ物をわけてもらっていました。


ある日、私が子守りをしていると日本兵が来て「この子の母親はどこにいるか」と聞いてきました。私は答えませんでした。その日本兵は、辺りを探していましたが、若い女が見当たらないので私に襲いかかってきました。


「お母さん助けて」と叫びましたが、私はその場で強姦されてしまいました。私はたった9歳で犯されたのです。翌日、私たちは赤ちゃんを連れて金陵女子大学へ避難しました。そこでは、ミニー・ヴォートリンというアメリカ人女性が必死になって中国人女性をかばって、世話をしてくれました。この人は日本兵に逆らったために、何度も殴られたり、時には往復ビンタもされましたが、決して引くことはなく、私たち中国人の面倒をよく見てくれました。 


日本軍が降伏した後で、私は結婚しましたが、夫には強姦されたことは話していません。私も口にしたくありません。解放後、生活は少しずつ良くなりましたが、辛い少女時代を送り、14歳から必死に働いてきました。今は定年退職して、やっと落ち着いた穏やかな日々が来ましたが、日本軍によって苦しめられた傷跡は消えることはありません。」 

        


朱さんの話に出てきた ミニー・ヴォートリンさんについて



ミニー・ヴォートリンさんの「南京事件の日々」


ヴォートリンはアメリカ人で、33歳の時、南京の金陵女子大学に赴任し、キリスト教の布教と女子教育に情熱をつぎこんでいました。


11月になって、いよいよ日本軍が南京にくるということで、アメリカ人の宣教師、大学教員が中心になって難民区を作ろうということになり、南京安全区国際委員会が結成されました。委員長はドイツ人のジョン・ラーベです。ヴォートリンは、朱さんの証言にあるように、女性たちを日本軍の強姦から守るために身を削って奔走しました。翌年5月、国際安全区が日本軍により解散させられてからも、ヴォートリンは、貧困に苦しむ女性たちの救済と教育のため、南京にとどまりました。


しかし南京事件から1年後、12月が近づくと「悪夢の南京事件の日々」がよみがえり抑鬱状態になり、それは徐々に悪化していきました。1940年にアメリカに帰国しましたが症状が改善することはありませんでした。そして翌年5月、ガス自殺を図り自らの命を絶ちました。


避難民の女性たちから、華小姐(ファー姉さん)と呼ばれ親しまれ、信頼と尊敬を受けていた、ミニー・ヴォートリンさんの胸像は、いまも南京師範大学入口に建っています。

 


 南京大虐殺は 2014年ユネスコの世界記憶遺産に申請し、翌年登録されました。日本政府はこれに猛反発、2016年日本軍「慰安婦」の声の登録申請に対して、分担金を出さないとか、ユネスコに圧力をかけ露骨な妨害工作をしてきました。そのため、いまだ登録は見送られたままです。

 

あったことをなかったことにしたいという日本政府のみっともない姿勢はかわらないどころか、ますますひどくなってきたように思えますが、私たちは、中国山西省の万愛花さんの遺言「決してあきらめないで」という言葉を胸に、これからも訴え続けていきます。山西省明らかにする会)