みなさま、こんにちは。

 私たちは、被害者の経験した事実を知っていただきたいと思って、毎回、一人ずつ紹介しています。今日は、吉元玉さんの事実をお知らせします。姓のキルという漢字は、おみくじの大吉・小吉の吉という字です。名前のウォンオクは、元気の元と水晶の玉の玉という字を書きます

 


 キルさんは、先月2月に、96歳で亡くなられました。日本にも何度も来日され、私も韓国に行けば必ず、「平和の我が家」を訪ね、キルさんたちにお会いしました。私たちはキルさんの穏やかな人柄と、一本芯が通った生き方を良く知っていて、そんなキルさんに親しさと、尊敬の気持ちを抱いています。芯が通った生き方というのは何でしょうか。それをこれから、お話しします。



私は、彼女の証言から、印象に残った3つの言葉を選んで、キルさんを紹介したいと思います。    


1、先ず最初は、「あれを記憶していたら生きていけなかった」という言葉です。

これは、最初の頃、「慰安所での生活はどうでしたか?」と聞かれるたびに、必ず「思い出せない」とか、「あれを記憶していたら生きていけなかった」とか言って、その質問に答えない時の言葉でした。辛かった記憶を消さないと戦後生きていけなかった、ということは、生理もなかった、たった13歳の少女にとって「慰安婦」生活がどんなに恐怖で残酷であったかを物語っています

では、その後の証言から、キルさんに「慰安婦」生活を語ってもらいますが、皆さまも13歳になったつもりで聞いてください。


 

家のためにお金を稼ぎたいと思っていた私は、13歳の時に、あるおばあさんに工場に行けば技術を教えてくれる,お金も稼げるようにしてくれる」と言われ、行くことにしたのに、汽車で着いた所は満州の慰安所だったのです。まんまと騙されたんです。


そこは、周りに軍人しかいない「慰安所」でした。「ハナコ」と名付けられました。


*狭い部屋に、軍人たちが入って来てやることは、13歳の私には耐えられませんよ.泣き叫びながら抵抗すると、軍人に殴られ、管理人が来て助けてもらえると思ったら、また殴られ、「抵抗するなら殺す」と脅されました。暴力の連続でした。


*そのうち、性病を移され「横根」という性病にかかりました.たった14歳で、です。


*軍人の相手ができなくなり,手術をされたんですが.その手術の時に,性病の手術だけではなくて,女性の一生を台無しにされたんですよ.卵管を縛ってしまって,子どもが産めないようにされたんです。


*それでも全然治らなくて,軍は、ご飯を食べさせるのも、もったいないと思ったんでしょう、人を一人つけて、一旦、朝鮮の家に送り帰してくれたんです.で、ようやく回復し、日本軍の部隊に働きに出ました。掃除などの仕事です。


*その部隊で働くうち、私を最初に騙した、あのおばあさんに出会ってしまったのです。

「ハナコ,こっちに 来い」と言うんです.その人を見たら、殺されるかと思って恐くて恐くて何もできず、そのまま汽車に乗せられ、今度は中国に行きました。そこも民間人はいなくて,軍人しかいない慰安所でした.

  (私が想像するに、人集めのおばあさんは、軍からキルさんを連れ戻して来いと命令されていたのかもしれませんね)


ここで初潮を迎えました15歳でした。生理だから休めるかと思って、管理人に言っても「余計なことを言うな!」と怒るだけ。そうして、床が真っ赤になっても許してくれないんですよ次々に来て、洗う暇もないんです. そのくらいひどい目に遭わせておいて、日本が事実を認めてくれないなんて、あんまりです


*酔った軍人の相手をするのは本当に怖かった。靴のまま蹴られたり、鞘を抜かない軍刀で頭を強打され、頭からの血がひどく流れても管理人は何もしてくれず、女性たちが助けてくれたのです。


*でも、いい軍人もいました。あわれに思って何もせず慰めてくれたり、薬や毛布を持ってきてくれたりして。


*そんなある日、軍人たちや管理人が突然、消えていなくなってしまいました。日本が敗けて、私たちは解放を迎えたんですが、女性たちだけが、言葉もわからない中国の地に見捨てられたんです。 (置き去りは多いです)


*何日かして,窓から外を見ていたら,大勢の人が「早く行って、この船に乗れなかったら、故郷には帰れないぞ」って叫んで通って行くんですよ.それで、その人たちの列に入って、船に乗り,仁川に到着しました. 16歳の時でした。  

 


 この慰安所での事実について、簡単にコメントします。

13歳の年とは1941年で、日本が太平洋戦争を始め、翌年から「慰安婦」の数を大量に増やした年です。いま、お話したキルさんだけの事実を見ても、「慰安婦」制度が戦争犯罪であり、国際法上の犯罪だったことが証明できるのです。なぜなら、13歳という未成年の連行や、工場だとだましての連行や、2度目の脅迫による正真正銘の強制連行は、当時の国際条約(日本も締結していた醜業条約)と国内法(刑法226条)で禁止された犯罪です。

 また、慰安所内での、暴力による性行為の強制は、正に自由のない「性奴隷」そのもので、「人道に対する罪」や「戦争犯罪」に当たります。さらに、慰安所は軍が直営する慰安所のようです、日本軍がこうした犯罪を容認した責任も重大です。こうした点から日本政府が法的に賠償など被害回復をしなければならないことは明らかです。国連からも何度も勧告を受けています。             

 

さて、2番目は


それまでは,どうすれば隠せるか,そればかり考えていました.

でも、今は違います。」という言葉です。

自ら尊厳を回復して、人権活動家に!)

 


 その話の前に、吉さんの帰国後の人生をざっくりまとめますと、帰国後、少しお金をためて北の故郷に帰ろうと、居酒屋で真面目に働き、声がきれいで歌を歌って、かなりチップも入り、さあ帰ろうと思ったら38度線が引かれて南北に分断され帰れなくなってしまいました。キルさんは人一倍働き、30歳の時、独立して小間物屋を開き、その後、一人で寂しいと思い、養子をもらって大学院まで出しました。彼は今、牧師をされています。キルさんは一生を振り返ってこう言われています「「慰安婦」にされた人はただ当時苦労しただけではなく、人生の痛みと孤独を抱かかえて生きてきたんです」と。

 


さて、ここからが本題ですが、いつも自分は「恥ずかしい人間です」「罪深い人間です」と繰り返していたキルさんが「でも、今は違います。」と変わったのはなぜか? キルさんに語ってもらいましょう。


 「私は,過去を隠そうとして,一緒に暮らす家族にも絶対に知られないようにしていましたが、うちの嫁が察してしまい、70歳の時、政府に登録しました。それでも沈黙していると、挺対協から、被害者のハルモニたちだけで済州島に行くから大丈夫だと誘われ、行ってみたら,本当に そこは平和の国のようでした(笑)


挺対協の若い人たちがあんなに闘ってくれているのに,私のようなボロボロの人間が何を隠そうというのか,世の中に出て行って、あの人たちと一緒に闘って,今後は私たちのような人が二度と出ない、戦争のない国,平和な国をつくるため闘わなければならないと、考えが変わったんです。 変わった理由は,人々が「慰安婦」の事実をありのままに知ってこそ,将来、同じような被害を減らせると思ったからです(事実を知ることこそがこの問題の原点だというキルさんの発想は見事で、最期まで一貫しています)


そして、日本をはじめ世界中(8カ国以上)を駆け巡って(証言し)、日本軍「慰安婦」問題の解決を訴えたのです。」

 

素晴らしい大変身ですね! 吉さんの変わった姿をもう一つ、紹介します。

それは在韓米軍基地の米国軍人相手に働かざるを得なかった女性たちに、呼びかけた言葉です。挺対協は、そうした女性たちとも連帯しようと活動していました。これも素晴しいです。では、挺対協代表だった尹美香さんの「キルさんへの追悼文」から紹介します。

 

「キルさんは、片手にマイクを持ち、もう片方の手で空を指差して「みなさん、立ち上がってください。みなさんは恥ずかしい人ではありません。みなさんをそうさせた韓国政府が悪いのです。口を閉ざしていても恥ずかしさがなくなりません。むしろ闘ってこそ恥ずかしさがなくなります。お姉さんである私がお手伝いします」そうおっしゃったハルモニの姿は真に尊いものでした。」

 


 キルさんの自信と尊厳に満ちた姿が見えるようです。 

同じ痛みを持つ人に対して、先輩としての激励ですから、人を動かす力がありますね。

 

 ここで、家父長制度などコメントしたいですが、時間がなく止めます。とにかく、キルさんは自分が恥ずかしいと思わされてきたことに気付き本当は、日本政府こそ恥ずべきだと、考え方を180度転換したのです。以来、尊厳を自ら回復し、人権活動家として活躍されました。これは、韓国の女性運動や挺対協の活動が大きく影響していると思います。アジアの多くの被害者も同じだと思います。 

                                     

3、印象に強く残った3つ目は、

あったことを無かったことにはできない」という言葉です。(吉さんの遺志を受け継ぐ)  


  以下、キルさんのお話です。

実際にあった歴史はなくなりません.永遠に隠せるものではないんです.日本政府も事実をありのままに認めてくれて、私たちに謝るべきは謝り,法的に賠償すべきは賠償をすればいいんです。賠償したからといって 私たちの身体が元に戻りませんよ。私たちはボロボロになったけれど,これから戦争のない国になって,こんなことが二度とないようにしたいのです。戦争では、どうしても人の心がすさみます.だから,同じようなことが必ず起こるんです。今も戦争のある国では私たちのような目に遭う人が、必ずいます。


日本は、私たちがみんな死んだらこの問題が終わると思っているでしょうが,私たちが死んでも絶対に終わりませんよ.水曜デモで小学生たちが,『ハルモニ,心配しないでください.僕たちがいるじゃないですか.ハルモニの代でできなければ,僕たちが謝罪もとります。賠償もとります!と言うんですよ」


 

最後に、2008年日本の議員たちに証言した時の言葉を紹介します。

「私が80過ぎまでこうしてなぜ生きてきたのかと考えると、議員のみなさんにこのようにお会いして、私たちのことをお願いするために生きてきたのかと思います。日本が変わらなければ解決しません。国会や政府が解決してくれなければ、問題は解決しません。死ぬ前に真実をありのままに認めていただきたいと思います。よくないことがあったと思えば謝り、賠償すべきことは賠償する。私が死んで土に還る前に、たった一言でもいいので、真実を認める言葉を聞かせてください。」(「私たちの公聴会」)

 


 最初に、芯が通った人だと申し上げた理由は、キルさんがこのように、加害者に対して闘い、二度と被害者を出さない平和な世の中を作るために、生涯闘うという姿勢を貫かれたからです。


 キルさんの遺志は、「あった事実を事実として認めよ!」ということで、余りにも当然なことじゃないですか! 正しい事実認識こそが謝罪や賠償の原点だからです。


日本政府も、32年前には「慰安婦」の事実をほぼ認め、真摯なお詫びをし、この事実を教訓として、教育で継承していく」という決意を表明した「河野談話」を発表したのです。しかし、現在の政府は、これと全く逆の立場となり、『外交青書』では、キルさんの体験した強制連行や性奴隷の経験は「史実とは言い難い」と書いてあるのです。つまり、ウソだと言っているのです。また、被害者は、日本軍が性病防止などの必要のため自ら設置、運営した慰安所に連行されたのに、今、教科書から「従軍」という言葉が削除され、「慰安婦」は軍とは無関係のように思わされています。こんな事実認識を決して許すことはできません。私たちも、30年も頑張ってきたのですが力不足で、キルさんの生きておられるうちに日本政府を変えることができず、慙愧に堪えません。

しかし、私たちも韓国の小学生のように、キルさんたち多くの亡くなったアジアの被害者の遺志を継いでいきます。「あったことを直視し、事実として認める政府に変えるよう、闘い続けたいと思っています。


皆さんもぜひ、ご協力をお願いします。長時間、有難うございました。

(坪川宏子)