昨日10月21日(水)、101回目の水曜行動in新宿を16名で行いました。


いつもサバイバーの写真を展示していましが、台風の影響もあり強風が吹き荒れたため、写真展示はできませんでした。


「二度と戦争をしないで!平和な社会を」というサバイバーの方々が願った思いを胸に、まず沖縄米兵による強盗殺人事件に対して怒り声をあげました。



発言は次のとおりです。


①月間報告   池田恵理子さん



 発言内容は下記をクリックしてください。https://www.restoringhonor1000.info/2026/10/101in-20261021.html

 


②沖縄の戦禍を生き抜いた朝鮮人「慰安婦」ペ・ポンギさん  梁澄子さん

 



発言内容は、下段のリーフ内容を参照してください。




③サバイバーを記憶する~本年8月1日に亡くなったチンダさんを追悼  

               寄稿:大野京子さん 原稿代読:山田久仁子さん



詳細内容は下記をクリックしてください。

 https://www.restoringhonor1000.info/2026/10/101-in.html



④飛び入りで発言したのは、西東京市「慰安婦」問題を考える会の田中栄子さん。「日本政府は謝罪と賠償をすべきである」ことを強く訴えました。






●今月のリーフ●







●リーフ内容●


 裴奉奇(ペ・ポンギ)さんは1914年9月、朝鮮の忠清南道新礼院に生まれました。父は小作地すらない貧農で、2歳上の姉は奉公に出され、母は出奔、3才下の弟と極貧の生活を送っていました。そして数え7歳の時にミンミョヌリ(将来その家の息子の結婚相手にするために、幼い時に連れて来て育てる少女)に出されました。しかし、出された家の主人に気に入られず父の元に戻され、それを何度か繰り返す生活を続けた後、17歳のときに結婚しましたが、結婚生活もうまくいかず、その後は朝鮮各地や満州をさまよいながら暮らしました。



そして29歳になった1943年、「仕事をしなくても金が儲かるところがある」と騙され、釜山から船に乗せられて沖縄・渡嘉敷島の「慰安所」に連れて来られました。沖縄に到着した44年11月から翌年45年3月末まで、「赤瓦の家」と呼ばれた「慰安所」で日本軍の性奴隷としての生活を強要され、沖縄の戦渦を生き延びました。



日本が敗戦した後、ポンギさんはひたすら沖縄の地をさすらい続けます。


「もうどこへ行っても落ち着かんさね、あっちへ行って一晩、こっちへ行って三晩、よくおったのが一週間。もう歩き通しさね。とこに行っても落ち着かない、落ち着かんのよ」



こうして朝鮮の解放(日本の敗戦)後も故国に帰るすべもなく、落ち着く場所も見つけられないまま沖縄をさまよい続けた裴さんは、沖縄の施政権が日本に返還された72年5月15日以降、60日以内に在留権取得の申請をしなかったために「不法滞在者」となりました。

そして3年後の1975年、これ以上働けなくなった裴さんは生活保護を申請、ここで初めて自身が「不法滞在者」になっていることを知るのです。その後、外国人登録をして「特別在留」許可を得る過程で、ポンギさんの事情が知られることになりました。


75年10月22日付『高知新聞』は次のように報じています。


「沖縄へ『慰安婦』として連行され、終戦後は不法在留者の形で……暮らしてきた朝鮮出身の年老いた女性が、このほど那覇入国管理事務所の特別な配慮で三十年ぶりに『自由』を手にした。当時は『日本人』でも、いまは外国人。旅券もビザもないため、強制送還の対象となるところだったが『不幸な過去』が考慮され、……法務省はこのほど特別在留許可を与えた」



日本軍の性奴隷にしておいて、「不幸な過去」を考慮して「特別な配慮」を施したというのです。



裴さんは日本軍「慰安婦」問題解決運動がやっと始まったばかりの1991年10月18日、自宅で亡くなりました。裴さんの四十九日の追悼式は、金学順さんが東京地裁に提訴した1991年12月6日に執り行われました。


裴さんの思いを金学順さんたちの運動が引き継いでいくことを象徴するかのように、その日、世界の耳目が「慰安婦」問題に注がれました。