私はピースボートという市民団体で、世界各地を訪れ、現地の人びと交流をしています。訪問する国、地域を選ぶ際に、大切にしていることがひとつあります。それは、体制の異なる資本主義と社会主義の国、双方を訪れるということです。政府レベルでは、資本主義国と社会主義国は対立していますが、国境を超えて民間の市民が交流し、顔が見える関係を築くことが平和の礎になると信じ、活動を続けています。そのため、ピースボートはアメリカにも行き、キューバにも訪れます。中国や台湾はもちろん、朝鮮半島も南北双方に訪れています。朝鮮民主主義人民共和国にはこれまでに6回訪れました。ピースボートで朝鮮を訪れたことのある日本の市民は、2,000人を超えていると思います。



1996年にピースボートで朝鮮民主主義人民共和国を訪れた際、私は日本軍「慰安婦」被害者である郭金女さんのお話を伺いました。本日は、私が平壌で直接伺った郭金女(カク・クムニョ)さんの証言と、何度も彼女に会われたジャーナリスト伊藤孝司さんの記事をもとにまとめた内容をご報告いたします。



郭金女さんは192318日、忠清南道で生まれ、咸鏡南道に暮らしていました。14歳の時、全羅南道の日本人家庭で小間使いとして働きましたが、過酷な労働に耐えられず、光州の日本人経営の製紙工場に移りました。



17歳のある日、「ソウルの食料品工場で高い給料が得られる」と勧められ、村の仲間と一緒に行くことになりましたが、実際には20人の娘たちと共に満州に連行され、日本兵から「従わなければ殺す」と脅されました。牡丹江に到着後、軍用トラックで28キロ先の鉄門つきのレンガ造りの建物に連れて行かれ、そこが「慰安所」でした。泣き叫ぶ私たちは無理やり押し込められ、日本軍人に半分ずつ分けられました。翌日には日本人医師による検診を受け、肝炎にかかっていた仲間の一人は姿を消しました。



郭金女さんにあてがわれた部屋は二人がやっと横になれるほど狭く、畳と毛布があるだけでした。日本の寝巻きに着替えさせられ、長い髪も切られました。夜になると軍人が部屋に押し入り、暴行を受けました。抵抗すると殴られ蹴られ、刃物で体を傷つけられました。郭金女さんは3人の将校に犯され、大出血で動けなくなりました。その後も兵士に襲われ、ナイフで腕や下腹部を切り裂かれ、片腕は今も不自由です。仲間も次々に命を落としました。村から来た友人キム・ドンニョさんは乳首を噛み切られ病死し、リ・チェンシルさんは兵士に蹴られて死亡しました。



郭金女さんは脱出を決意し、ある日曜日の朝、日本兵が寝ている隙に「慰安所」を抜け出し、朝鮮人の家で助けを得てソウルに戻り、母と姉に再会しました。郭金女さんは「私は嫁に行かない、男はもう嫌だ。親と一緒に暮らしたい」と言ったそうです。しかしお見合いすることになり、相手には「慰安婦」にさせられていたことは言わずにいたそうです。その後、結婚して中国吉林省に移りましたが、夫は徴兵され行方不明となりました。郭金女さんは子どもにも過去を隠し、心身の苦しみを抱えながら生き続けました。



郭金女さんは病気の中でも食欲があり、キムチやもやし、きゅうりの和え物を好んで食べました。孫のチェソンヒさんは、ハルモニが幼いころから病気を心配し、世話をしてくれたことを語り、祖母の被害体験を知ったことで日本帝国主義に対する怒りを抱きつつ、郭金女さんが長生きできるよう支援していることを明かしました。


郭金女さんは孫のチェ・ソンヒさんと一緒に「故郷の春」を歌うたび、忠清南道の故郷の風景を思い出していました。しかし、軍事境界線の南にあるため、故郷に戻ることはできませんでした。




朝鮮で名乗り出た日本軍性奴隷被害者は219名です。郭さんが被害者として名乗り出た際、家族は大きな衝撃を受けたそうです。郭金女さんらは日本政府に過去の清算を求め続け、最後まで自らの体験を語り続けました。200767日、郭金女さんは自宅で家族に見守られながら亡くなりました。



朴金女さんは常々このように語っていました。「日本軍は私の青春も家庭も奪い去りました。しかし、日本の政治家が「慰安婦」は金で働いた娼婦だと発言していると聞きました。皆さん、自分の母や娘が同じ目に遭わされても黙っていられますか。私は日本軍の犯罪を告発し、真実を伝え続けたいと思います。日本政府はこの罪を真摯に認め、償いを行うべきです」。



本日は、私自身が平壌での交流会で直接伺ったサバイバーの話を報告させていただきました。