〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第91回 水曜行動 in 新宿 荒川河川敷での調査と追悼の取り組みについて 矢野恭子
「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の矢野恭子と申します。本日は、「荒川河川敷での調査と追悼の取り組みについて」お話しさせていただきます。
今年は関東大震災から102年めとなりました。関東大震災のさなか、大災害を生き延びた人々の間で、今度は人災=日本の官憲や民衆が、朝鮮人を殺害するという事件が起きました。朝鮮人虐殺事件は関東一円で起きた事件で、自警団の成立も関東1府6県で3600ヶ所以上に及びました。
私たちがフィールドにしているのは、東京墨田区の京成八広駅にほど近い、荒川放水路の河川敷です。隅田川と荒川に挟まれた地域です。
墨田区は当時、火災で3万8000人という大変な焼死者を出した被服廠あと=今の都立横網町公園のある本所区と、南葛飾郡の放水路の西側の地域にあたり、震災後大火事になった本所区や隅田川の対岸・浅草側から葛飾や千葉方面へ避難する経路の一つが旧四ツ木橋でした。
足立区の小学校教員だった絹田幸恵は4年生の社会科で、「荒川放水路は20年ちかくもかけて、人の手で掘られた人工の川だ」と子どもたちに話すと、「うそだー、あんな大きな川を掘れっこないよ」「どうやって掘ったんだ」と騒ぎになりました。絹田も「自分もよく知らなかった、放水路開削工事のことをもっと調べよう」と、夏休みなどを使って川の上流から工事にまつわる話をお寺さんや旧家にお話を聞いて歩いていました。
京成押上線の鉄橋が放水路にかかっていますが、その少し南に今はない四ツ木橋という木造の橋がかかっていました。震災の前年にかけられたばかりでした。私たちは現在の水戸街道の四ツ木橋と区別するため、旧四ツ木橋と呼んでいます。
1970年台半ばごろ、絹田が上流から聞き書きをしてきて旧四ツ木橋あたりに来た時、地元のお年寄り方から「放水路の事も良いけど、関東大震災の時はもっと大変なことがあったんだ」と聞きました。
「荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺した。なんとも残忍な殺し方だったね」。
「土手につれてきた朝鮮人を、川のほうに向かせて並べ、兵隊が機関銃で撃ちました。…ずいぶん殺したですよ。私は穴を掘らされました。…ときどき怖い夢を見ました。」
「あの仏さんたち、よっぽど丁寧にお供養しないと浮かばれねぇな」
絹田は、特に「遺骨はまだ埋まったままではないか」と聞いて、何とか掘り出してお供養できないかと相談して回りました。
1982年に私たちの先輩が絹田さんの証言を聞く会を開き、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」~発足時は「慰霊する会」~を発足させ、建設省=現在の国土交通省の許可を得て、荒川河川敷を3ヶ所調査的に発掘しました。
証言をもとに試掘を行いましたが、遺骨は見つかりませんでした。埋めた場所はもっと堤防寄りとの調査結果でした。
しかしこの試掘は反響を呼んで、発掘現場には「俺も見たんだよ」というお年寄りがたくさん来ていました。急遽、聞き書き班を発足させ、後日お話を伺いました。関東大震災の時20歳だった人が79歳という、ぎりぎりお話を伺える時期でした。また、墨田区の70歳以上の方にハガキを送って、証言を聞かせて下さる方を募ったりしました。
その結果、1980年代半ばまでで、のべ150人の方から虐殺事件の証言を聞きました。自警団など日本民衆による虐殺事件は、旧四ツ木橋だけでなく、私たちが伺っただけでも墨田区・江東区・江戸川区・葛飾区・足立区などでも事件は起こっていて、震災被害の激しかったところの周辺や避難経路等で事件は起きていました。
一方、試掘の時仮代表を務めて下さった立教大学の山田昭次先生が文献資料班を率いてくださいました。
特に新聞記事では国会図書館に行って、1919年の三一運動以後から震災後まで東京下町の地域構造がわかる記事等を拾い出していたのですが、その中で震災後の11月に憲兵や警察が2度にわたって旧四ツ木橋の下手を掘り返し、遺体・遺骨をどこかに持ち去っていたのが新聞各紙に載っていました。
朝鮮人犠牲者の遺体・遺骨のことが、単独で新聞記事になっていたわけではありません。
震災下に亀戸事件という、日本人労働運動家らが亀戸警察署の中で、習志野騎兵連隊の兵士に殺害されるという事件も起きました。その遺体を埋めた場所が旧四ツ木橋下手だと亀戸警察署長が言ったため、そこにあった朝鮮人の遺体・遺骨もクローズアップされたのです。
亀戸事件については日本人遺族・労働組合・弁護士らの追及もあり、新聞各紙もこぞって記事にしました。その記事の端々に伏字などで「百余名の死体中に、朝鮮人の遺体も数多く」等と表現されているのです。
亀戸事件遺族らは、現場からの遺骨発掘を望んでいたのですが、掘り出す前日、警察は秘密裏に遺骨を掘り出して警察署に持ってきていて、受け取れと言ってきました。怒った遺族らは荒川河川敷に向かいましたが、憲兵と警察が遺族を河川敷に近づけさせませんでした。そして翌日の夜また、警察官を人夫に変装させ、大警戒の下で遺体・遺骨を13個の棺に入れトラック3台でどこかへ運び去りました。
追跡記事で、掘り出した遺体は日本人のものと言っていたが、人夫が「全部朝鮮人のものだった」と証言したのが新聞2紙で報道されています。
このあたりは2021年に出したほうせんか編著の『増補新版 風よ鳳仙花の歌をはこべ』(ころから)に詳述したので、読んでいただけるとありがたいです。
1980年代後半には多くの体験者が鬼籍に入られ、聞き書きも難しくなってきました。また試掘の年以来、河川敷の一時使用許可をとって年に一度追悼式を行っていたのですが、「いつ行っても手を合わせられる追悼碑が欲しい」という要望がでていたので、追悼碑建立を次の課題としました。
1991年から追悼碑建立のよびかけをしましたが、1級河川である荒川は地方公共団体等でなければ河川敷の占用申請ができないと建設省に聞き、地元・墨田区に根を張る活動をしようと、社会教育登録団体「グループほうせんか」を立ち上げました。
すみだ国際交流ネットワーク会議等に参加し、交流したり在日外国人の人権状況などを学びあいながら、その中で2000年に墨田区議会に「関東大震災朝鮮人殉難者追悼事業に関する陳情」を出して墨田区の協力を求めました。しかし、結果は不採択でした。その後、私たちは自力での追悼碑建立をめざしていくことになりました。
追悼式の反省会をさせてもらっていた土手下の居酒屋さんのおじさんが、「俺も年だし、この土地を譲ろうか」と言ってくれ、有志で私有地を買わせてもらい、追悼碑建立のために国際交流ネットワーク会議などで知りあった大勢の方が協力してくれ、追悼碑建立のためのチャリティコンサートを開催しました。ボランティア70人の力で、600名の参加者と共に、「朝鮮人犠牲者追悼碑」を建てようと心を一つにしました。
結局19年かかって2009年9月、墨田区八広の荒川堤防の下、住宅地の中に「悼 関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」を建てることができました。
追悼碑の隣には、日本語とハングルで碑の解説板も設置しました。これまでの話と一部重なりますが、解説を読ませていただきます。
「1910年日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、1920年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
1923年9月1日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
60年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された」
居酒屋の宴会場だったところを平屋の小屋にし、追悼碑を建てる前からメンバーがそこに住みこみ、地域の方と交流しながら追悼碑を建てることに理解いただけるよう努力しました。追悼碑を建てた後も5年そこで暮らしました。追悼碑と建物を法人所有とするため、2010年に一般社団法人ほうせんかを設立し、今ではこの名前の方が通りやすくなっています。
2010年代に入って、各地でヘイトデモが多発し、歴史修正主義は震災時の朝鮮人虐殺否定にもおよんできました。そして皆さんご承知の通り、2017年以降、小池百合子東京都知事は都立横網町公園内の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行われる追悼式典に、追悼メッセージを送らずにきています。「何が事実かについては、歴史家がひもとくべきだ」と虐殺事件が事実であることを認めない態度に出たことで、多くの良識ある人の危機感を喚起したと思います。横網町公園での追悼式典だけでなく、私たちの荒川河川敷での追悼式も、参加者が増えマスコミ等の取材も増えました。
100周年である2023年には追悼式参加者も600人となりましたが、それだけでなくメンバーの在日朝鮮人女性が追悼碑を訪れる若い方たちに声をかけ、20代から40代の人たちで「ほうせんか100周年追悼式実⾏委員会「百年(ペンニョン)」というグループを作り、一緒に追悼式を開催しました。前年から学習会や話し合いを何度も開き、「同世代の友人を誘えるように」、「何を伝えたらこの事件を伝えたことになるのか」と模索しています。今年は河川敷で44回目の追悼式を、700名を超える方々と共に行ないました。
河川敷の追悼式は、各地から駆けつけてくれる助っ人の皆さん無しには、会場の 設営も受付も行なえません。皆さんが「何とかしなくちゃ」と、一緒に作ってくれる追悼式です。
街なかの追悼碑も、おかげさまで地域の方々のご理解のもと、15年が過ぎました。自転車が止まったので出てみると、ヤクルトやお酒のパックが供えられていたりしています。駅に向かう人通りがある道沿いで、今はむくげとホウセンカが最後の花をつけています。
在日コリアンからは、102年前の虐殺事件は決して過去の事でなく、今も日本社会の中に地続きの恐ろしさを感じるという話をよく聞きます。多くの方々の協力で建ったこの追悼碑を大事にまもりながら、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を伝え、虐殺犠牲者と事件を忘れない、そしてヘイトクライムを許さないメッセージを発信していきたいと思います。