毎月第3水曜に行っている「水曜行動 in 新宿」の報告です。

風がちょと強かったので冷たさを感じましたが、だんだん暖かくなり、風の冷たさを忘れることができました。




オープンマイクは、いつものように池田恵理子さん。








首相秘書官の同性婚に対する差別発言や杉田水脈議員の暴言が相次いでいるが、発言の根は深い。徴用工問題や100年前の関東大震災下の朝鮮人・中国人虐殺などについても、私たちは日本の負の歴史に向き合っていく必要がある。また日本のジェンダー不平等はとても先進国とは思えず、広島G7サミットの中でもこの事を問いただすために女性たちの闘いが始まっている。

こうしたことの根底にあるものは、統一協会と自民党右派との癒着で問題となっているが、性的マイノリティへの差別、家父長制に戻りたいという思考が両者に共通してあり、封建的な「家」制度に回帰したい認識が根強くあることを私たちはもっと自覚して考えていくべきだ。




ロラネットの山田久仁子さんが、フィリピンのリラピリピーナの取組みを紹介。





フィリピン・リラピリピーナは、「慰安婦」被害者と支援者の組織。日本政府が「慰安婦」問題の解決にきちんと取り組むよう、1月に国連人権理事会に要請した。2006年にできた国連人権理事会は、加盟国193カ国で、お互いの人権状況を審査するもので、その審査、普遍的・定期的審査(UPR審査)が131日にあった。



この日、リラピリピーナは日本政府とフィリピン政府に声明を発表した。その内容は、「第2次世界大戦中、100万人以上のフィリピン人が命を落とし、多数の女性たちが人道的虐待、性的暴力を受け、特にマニラ市街戦では首都が完全に破壊された。今、フィリピンと日本がアメリカとの軍事協定の下に合同軍事演習を目論んでいるがそれはフィリピンを再び戦場へと引きずりこむものである。日本は軍需物資の販売、政府開発援助プログラムを軍事化しているが、これらの戦争に向けた行動をやめてほしい」と要請。また今回のUPR審査で、日本はまたしても「慰安婦」問題について触れなかったことに対して、サバイバーの2人が怒りの記者会見を行った。ナルシサ・クラベリアさんとエステリータ・ディさんで、お二人とも90歳を過ぎている。会見したマニラのロハス通りのホテルの前は、遊歩道に「慰安婦像」が建っていたが、日本政府の圧力で、わずか5カ月で撤去されてしまった(20185)。「この国には、日本軍の戦いを記念した慰霊碑、神風特攻隊慰霊碑など加害者をたたえる碑がたくさんあるのに、私たち、自分たちの国の被害者の歴史を残す碑は撤去されるのか」とその理不尽を訴えた。フィリピンはこれまで日本からの経済的な恩恵を受けている関係で、これまでの大統領は「慰安婦」問題を避けてきた。「戦後補償は二国間の経済協定で済んでいるとの立場だが、「慰安婦」被害者はその後に名乗り出たのであり、被害者への補償はすんでいない」と強く抗議した。


今回の人権理事会では、115カ国が日本に対して発言し、勧告の数は300。日本政府は、一刻も早く具体的な取組みをするよう求める。




梁澄子さんは、210日の韓国・尹美香さんの判決は、勝利の内容であったが、日本の報道はそれを伝えていないことについて発言。






韓国で「慰安婦」問題解決のために誰よりも懸命に闘い、リードしてきた尹美香さんに対して、ソウル西部地裁は1500万ウォン(約150万円)の罰金刑を課した。尹美香さん対してこれまで検察が並べ立てた横領などの多くの罪に対して、この罰金刑の判決が出たとたん、韓国では人々の見方が変わった。「有罪ではなく、事実上無罪だ」という反応だった。



検察は5年の懲役刑を求刑したが、裁判所は結論として1500万ウォン(約150万円)の罰金刑を出したという落差がある。また検察は8つの容疑をかけたが、8つのうちの7つの容疑がすべて完全無罪であった。元々容疑自体が、無理筋のものであり、無罪となって当然の内容。そしてただ一つ、横領罪の中の一部を裁判所が認めた。検察は10年にわたり1億ウォン(約1千万円)を流用したと主張したが、その内容は前もって立替、後から精算するというだけものであった。200円の文房具などの立替について10年間で1億ウォンとなった。裁判の中で尹美香さんは、10年前の領収書などをかき集めて証明しなければならず、それでも十分に証明できないと裁判所がみなしたものが1700万ウォンあり、それを横領罪とした。一方でこの10年間で、尹美香さんは1億ウォン(約1千万円)を超える額を挺対協、正義連に寄付をしていたことも明らかになった。



こうした事実がわかったために、それまで尹美香さんを魔女のように言っていた人までが、「なんだ!尹美香は、ほんとは何もしていなかったんだ」と韓国の人々は気が付いた。しかし日本の報道は、そのことを強調せず、タイトルでは「有罪」「罰金刑」だけを出している。これを見ると誰が彼女の有罪を望んでいるのかということが明らか。



日本軍「慰安婦」問題解決のために、私心なく、献身的に、潔癖に活動してきた運動家である彼女が、無実の罪で裁判にかけられたこと自体が悔しいことだが、それを望んだのはいったい誰なのか。韓国にもそれを望んだ人たちがいるので、このようなことになった。しかしより強く望んでいたのは、日本政府であり、日本のメディアであり、この社会なのではないか、と思う。彼女を罪人にすることによって、「慰安婦」問題解決の運動をつぶす、日本軍「慰安婦」問題をなきものにしたい、という日本社会が、彼女を未だに解放できていないと、私は考えている。



しかし私たちはこのことで運動がつぶされるということは、実際にはないと思っている。なぜなら、私たちが真実を知っているから。彼女が潔白であるということを、私たちが自らの目で見て記憶している。日本軍「慰安婦」サバイバーたちは、二度とこのようなことが起きないように、どれほどの勇気を振り絞って「慰安婦」問題を告発してきたか、若い時に教えてくれた、そのことを私たちが記憶している限り、どんな手を使っても「慰安婦」問題をなかったことにさせることはできない。 



尹美香さんは、今後1700万ウォンの使途について明らかにすると言っている。尹美香さんの闘いも続くが、私たちの闘いも続く。日本軍「慰安婦」サバイバーたちが私たちに残してくれた財産を決して忘れてはならない、平和な社会を築くためにこの闘いは続くのだと思っている。

皆さん!真実を見る努力をしていただきたい。




22日が命日の姜徳景(カン・ドッキョン)さんのことを池田恵理子さんが発言。




添付のリーフをご覧ください。(以下は、リーフより抜粋)

「『慰安婦』制度の責任者を必ず処罰してほしい。それがなくては、私たちは目をつむることができない」と言っていた姜さんは、没後もその活動を続けています。遺された絵画の展覧展は国内外で開催され、その人生と語りは何冊もの本や写真集になり、ドキュメンタリー映画やテレビ番組が作られました。


姜徳景さんに出会った者たちは焦燥にかられながら「ハルモニの思いに応えて、自分には何ができるのか」を模索し始め、背中を押されて動き出します。2000 年の女性国際戦犯法廷の実現もその一つでした。亡くなられて 26年経った現在もそれは変わりません。

日本政府が事実を認め謝罪するまで訴え続けていくことが、出会った者の責任です。これからも諦めず声をあげていく。

 

(報告 木瀬慶子)



●本日配布したリーフ




 



● リーフの内容



 今、一番描きたいのは「責任者処罰」です

~語り続ける 日本軍「慰安婦」被害者・姜徳景(カン・ドッキョン)さん~



 1997 2 2 日、68 歳で亡くなった姜徳景さんは、実に雄弁な人でした。 最年少ながら「ナヌムの家」のハルモニたちのリーダー格で、日本政府に謝 罪と賠償、責任者の処罰を求めて行動し、鮮烈な言葉で怒りと苦しみ、無念 の思いを語りました。その胸の内を絵画で表現し、次々と名作を描き上げました。そう、姜徳景さんは優れた語り部として、人権活動家であり画家でも あったのです。


  1929 年、韓国の慶尚南道晋州に生まれた姜さんは、1944 年、国民学校高 等科 1 年の時、女子勤労挺身隊一期生として富山県の不二越の軍需工場に送り込まれました。長時間労働と空腹に苦しみ寄宿舎から脱走。そこで憲兵に 捕まって強かんされ、慰安所に連行されます。連日の強かんは日本の敗戦まで続きました。帰国途上で出産した男の子は孤児院に預けましたが、4 年後 にその死が告げられてからは自暴自棄となり、酒やタバコに溺れたと言いま す。様々な職を転々として農園で働いていた 1992 年、テレビで「慰安婦」 被害者のニュースを見て申告を決意し、「ナヌムの家」に入居しました。 


 「ナヌムの家」で姜徳景ハルモニの人生は大展開します。来訪者や証言集会の聴衆には自らの「慰安婦」被害を生々しく語り、ソウルの水曜デモや日本政府の「女性のためのアジア平和国民基金」反対運動でも先頭に立ちました。

 「ナヌムの家」の絵画教室で学んでからは、自分の体験や思いを絵で表現し始めます。1994 年、東京地方検察庁に「慰安婦」制度の責任者処罰を求めて告訴状を提出しようと、26 人の被害者の代表として来日しました。これが不受理とされた時は、「日本は大きな罪を犯したのだから罰を受けるべきだ」「私 たちは死ぬまで闘う。そんなに簡単には死ねない」とその悔しさを訴えまし た。 


 肺ガンを告知されて闘病生活に入ってからも、姜さんは闘い続けます。最期の病床で案じていたのは、日本へ抗議に出かける準備のことばかりでした。 

 「『慰安婦』制度の責任者を必ず処罰してほしい。それがなくては、私たち は目をつむることができない」と言っていた姜さんは、没後もその活動を続けています。遺された絵画の展覧展は国内外で開催され、その人生と語りは 何冊もの本や写真集になり、ドキュメンタリー映画やテレビ番組が作られました。


  姜徳景さんに出会った者たちは焦燥にかられながら「ハルモニの思いに応えて、自分には何ができるのか」を模索し始め、背中を押されて動き出します。2000 年の女性国際戦犯法廷の実現もその一つでした。亡くなられて 26 年経った現在でも、この状況は変わりません