今年最後の「水曜行動in新宿」は、1220()20名で行いました。

 

いつも行っていた小田急百貨店前が大規模工事のため柵で囲われてしまっていたため慌てましたが、急きょ、場所を変えて京王デパート寄りの所で広々と行いました。

 

①月間報告:池田恵理子さん


最初の池田さんの発言では、「慰安婦」問題をめぐる集会開催や、ソウル高裁の判決について経過が報告され、また127日に中国・桂林の羅善学(ルオ・シャンシュエ)さんが78歳で亡くなり、「日本兵の子」として家族からも地域からも差別され苦しんだ羅善学さんの被害と人生が語られました。

池田恵理子さん

 

〈池田さん発言内容〉

 ガザでのジェノサイドの凄惨な映像に胸が痛む中、「慰安婦」関連の動きも多々あったが、何といっても大きかったのは1123日、韓国で日本軍「慰安婦」被害者や遺族の裁判が勝訴したニュースだった。ソウルの高等裁判所が原告たちの損害賠償請求を認め、日本政府に請求全額の支払いを命じたのである。この判決と被害女性たちの闘いについては後ほど詳しい解説があるので聴いてほしい。


 この勝訴判決があった翌24日、第31回アジア連帯会議がリモートで行われ、韓国、フィリピン、台湾、中国、ドイツ、そして日本からの連帯会議30年の成果と今後を熱く語る声があふれた。頑なに「慰安婦」問題の解決を拒否し続ける日本政府の問題とは、時には逆風や反動に見舞われても、国境を越えた市民連帯で闘い続けよう・・・と確認し合った。


 また今年は河野談話から30年が経ったので、125日には吉見義明さんと永井和さんという二人の歴史学者が、これまでの膨大な研究成果によって日本政府の事実歪曲を鋭く批判し、是正を迫る院内集会があった。


 一方、告発から30年も経つと、今月も被害者の訃報が相次ぐ。1218日にはフィリピンのフェデンシア・ダビットさんが亡くなった。フィリピンで日本政府を提訴した原告は46人いたが、生存者は4人になった。127日には中国・桂林の羅善学(ルオ・シャンシュエ)さんが78歳で亡くなった。羅さんの母・葦紹欄(ウェイ・シャオラン)さんは連行された慰安所で妊娠、羅さんを出産した。羅さんは「日本兵の子」として家族からも、地域でもいじめられ差別されてきたが、「女性国際戦犯法廷から10年」のシンポジウムで2010年に来日。泣きながら証言する母を支えながら、羅さんが悲痛な自分の人生と被害を語って号泣した姿を忘れられない。


 wamでは松井やよりさんの特別展を行っている最中だが、20201227日に亡くなった松井さんを偲んで、1216日、山口明子さんと武藤一羊さんにその思い出と仕事を語ってもらった。遺作となった本のタイトルは『愛と怒り 闘う勇気』だったが、“怒る人・松井やより”が生きていたら、今のこの日本にどれだけ激しく怒ったことだろう・・・と思う。


 昨日の「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」の会議では、最近話題になった 牧師で平和運動家だった故・岡正治氏の性暴力問題について、「岡まさはる記念長崎平和資料館」の理事の一人が発言。当館は「長崎人権平和資料館」と改名、展示も見直して再出発の予定であると報告した。人権と平和を求めて活動している人や団体の中にも性差別や性意識の問題は発生し、決して他人事ではない。私たちも自らを検証しつつ、応援していきたいと思った。

 

 

②サバイバーの闘いと被害者に勝訴をもたらした国際法の流れ~ソウル高等裁判所判決:保田千世さん


保田千世さん(左から2人目)

次の発言は保田さん。「慰安婦」問題は過去の問題ではなく、現在起きているジャニーズ問題や自衛隊での性加害の問題に続く平和・人権の問題であることを前置きし、被害者は今も被害に苦しんでいると訴え、判決について次のように述べました。


【日本軍「慰安婦」被害者・遺族たちによる日本政府への賠償請求訴訟で、1123日、ソウル高裁は、原告勝訴の判決を出した。被害者が10代のころ日本軍によって騙され、慰安所に連れて行かれ、殴られ、性の相手をさせられ、現在も後遺症がつづく被害を高裁は認定した。それは当時の国内法や国際法に違反する。日本政府は国際慣習法の主権免除を盾に、「国際法違反」と反論しているが、人々の闘いと歴史の進歩によって、国家の利益より個人の人権尊重が認められる国際法の進歩の中で、日本の反論は論拠をなくしつつある。この判決に対して原告のイ・ヨンスさんは、判決を心から喜び、涙を流しながら、亡くなったすべての被害者にこのことを伝えたいと発言した。諦めず闘うことで歴史が動いていることを、皆さんとともに確認したい。】

 


③サバイバーを記憶する~軍事協力より戦争被害者に補償を、フィリピン人エステリータさんの訴え~:山田久仁子さん


3番目の発言では、最初にフィリピンのフェデンシア・ダビッドさんが1218日、95歳で亡くなったことが報告され、ご冥福をお祈りしました。そして岸田首相の11月のフィリピン訪問が日米の軍事協力強化の一環であったことに対して、エステリータさんが記者会見で「軍事協力より戦争被害者の補償を」と訴えたことが話されました。さらにエステリータさんの被害と人生についても語られました。



山田久仁子さん(左から2人目)



〈山田久仁子さんの発言〉

エステリータ・ディさんは、フィリピンで第2次世界大戦中の1943年に、日本軍によって性奴隷とされました。

エステリータさんは現在93歳です。

 

今年の11月に岸田首相がフィリピンを訪問しました。フィリピンと日本がアメリカと協力して安全保障をさらに強化する、そのために共同訓練を一層強化すると発表しました。


 このことに対して、フィリピンの元「慰安婦」被害者たちは記者会見を開いて、「軍事協力よりも先の戦争被害者に補償を」と呼びかけました。かつてのアジアへの侵略戦争が再び起こる事への危険を訴えて、フィリピン議会に協定に反対するよう呼びかけたのです。


 この記者会見では、他のネットワーク団体も抗議の声をあげました。


 マニラに建てられた「慰安婦」像が日本政府のテコ入れで2018年に撤去されたのですが、このことをきっかけにそれに抗議した市民団体「フラワーズ・フォ・ロラズ」が作られました。このメンバーのテレシータさんが今回、日本政府に「正式な謝罪と賠償を!」「3月の国連女性差別撤廃委員会の勧告を受け入れよ!」と言いました。この勧告を政府は一時のもので、今回限りの給付だと言っているのですが、「被害者をきちんと継続的に救済するための基金を設けよ」「教科書への記載、慰安婦像の再設置」「慰安婦記念資料館をつくって」など、戦争被害を後世一次の世代に語り継ぐことができる具体的な措置を求めました。


 その中でエステリータさんは、

「自分たちが受けた被害が今の若い人たちに再び襲いかかるような全ての戦争に反対する」と声をふり絞って叫びました。

 エステリータさんは、被害者として名乗りでてからずっと今まで、「このように戦争だけはダメ、私のような女性が同じ目にあう」と訴えて活動を続けています。

 

今日は、そのエステリータさんの生い立ちを紹介します。


エステリータさんは、フィリピンのネグロス島に生まれました。フィリピンは島の多い国で、7000もの島があり、ルソン島という大きな島の南に、ちょうど日本の四国の面積と同じ大きさの島がありますが、それがネグロス島です。


ネグロスは、昔から、さとうきび栽培が盛んで、製糖工場が各地にありました。その製糖工場のあったタリサイというところに、1943年に日本軍がやってきました。エステリータさんは母親と一緒にバコロド(中心都市)の日本軍の飛行場に働きに行っていました。


米軍が間もなくやってくるという頃から、日本軍はとても残酷になって、ゲリラとみなした人々の首を切ったり、井戸に放り込んだり、女性たちをタリサイの製糖工場に連行したりしました。

エステリータさんは、194410月、13歳の時、お母さんと一緒に市場で鶏と卵を売っていた時に、たくさんの日本兵がトラックに乗ってやってきて、エステリータさんは捕まってしまいました。逃げ遅れて、転んでしまったためです。

駐屯地に他の女性たちと一緒に閉じ込められ、3週間もの間、昼間は掃除や洗濯、夜になると日本兵にレイプされる日が続きました。


ある日、日本兵たちが駐屯地から山岳地帯に撤退して、エステリータさんたちは解放されました。家族は、エステリータさんが死んでしまったと思っていたそうです。エステリータさんは、小学校3年生に入り直して卒業しましたが、周りの人たちに自分の秘密を話すことはできませんでした。18歳のときに(1949年、被害にあって5年後)、自分の身におきたことを忘れるために、マニラに出ました。

洗濯婦などをしてくらし、6人の子どもを育てました(一人は死去)。



1993年にラジオで「慰安婦」被害者は名乗り出て、という放送を聞いて、出かけて行き名乗りでました(62歳)。フィリピンの支援団体のリラ・ピリピーナのメンバーになりました。そして子どもたちにも事実をうち明けました。

リラ・ピリピーナは、その前の年(1992)につくられましたが、各島から続々と被害者が名乗り出て、174名の方々が認定されました。


でも今現在、生存している方々は少なく、ひっそりと亡くなったり、子や孫の世話になったりして、ましてや活動に参加できる人は数名になってしまいました。エステリータさんは、その数少ない中のお一人です。


名乗り出てから何度も、東京に出てこられました。今から10年くらい前は、とても元気で、食欲もあり、以前働いていたこともあってか、筋肉もしっかりして、リラ・ピリピーナのコーディネーターのリチェルダさんよりも、食事を残さずしっかり食べる人でした。

 

フィリピン支援団体のロラネットが、2010年、今から13年くらい前に「カタロウガン ロラたちに正義を!」というドキュメンタリー映画を作成した当時は、映画の冒頭に出てくる人です。ロラズセンターで、ごはんづくりに励んでいる姿です。


フィリピンを訪問したときは、ロラズセンターで、ガーリックライスを作ってくれて、トヨという小魚(干し魚)を添えて食べたものです。


この映画撮影のカメラマンが、男の人だったこともあり、撮影が打ち解けてできるようになるまで、男の人=日本兵への恐怖が消えなかったと言います。

 

いま、93歳です。以前は大柄な人だったのですが、その後、糖尿病を患い心臓もあまり調子が良くなく、白内障も支援者の助けで手術することができましたが、以前と比べてひとまわり小柄になってしまいました。お金がかかるのを恐れて、めったなことでは検査などで病院に行きませんが、最近では中国系のお医者さんが医療費と交通費の支援をしてくれています。

そんな中でも、活動しているエステリータさんを心から尊敬します。日本にいる私たちも頑張らねばと励まされます。

 



④飛び入り発言:Hさん


 

最後に飛び入り発言。2023年は性暴力の告発が相次いだが来年こそは性暴力のない社会をつくりたい。イ・ヨンスさんたち被害者が人生をかけて闘った結果、ソウル高裁の判決が勝ち取られたが、ここに至ってしまったのは私たち日本社会の責任でもある。日本軍「慰安婦」問題の解決は、女性の人権、平和の未来をひらくと諦めず訴えたい、と訴えた。



Hさん



なお、来年2024年の最初の「水曜行動in新宿」は、117日の予定です。

来年も諦めることなく、がんばっていきましょう。



(報告・木瀬慶子)



〈当日配布したリーフ〉





●〈リーフ内容


日本軍「慰安婦」被害者と遺族ら16人が日本政府に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、韓国のソウル高裁は11月23日、日本政府に1人あたり2億ウォン(約2300万円)を賠償するよう命じました。


◆「主権免除」ー現在は絶対的な規則ではなくなっている

 日本政府はこれを「国際法違反」だと言っています。「国家は他国の裁判権に服さない」という国際慣習法があるというのです。これを「主権免除」と言いますが、しかしこれは現在では絶対的な規則ではなくなっています。すでに19世紀末からたくさんの例外が認められてきました。例えば商取引の関係とか、Aという国の公務員がBという国で不法行為(例えば交通事故を起こすなど)をおこなった場合にはB国で裁判ができる、といったことです。こういった場合にまでA国の公務員だからB国では裁けない、というのは理不尽ですよね。


◆「国益」よりも「人権」を守ることが優先される

  ~ソウル高裁の先進的な判決を裏づける国際法の流れがある~


  さらに、B国の人がA国によって重大な人権侵害を受けた場合にはB国で裁判ができるという「人権例外」も国際法上、有力な考え方になっています。「国益」よりも「人権」、つまり人権を蹂躙された個人が裁判によって救済される権利の方が国の威信や外交の安定などよりも大事だと考える国際法の流れがあるのです。今回の韓国での判決は、まさにこのような国際法の先進的な流れに則ったものだと言えます。

 このような先進性を無視して、国際慣習法に対する旧態依然とした解釈を繰り返すだけの日本政府の主張を鵜呑みにしてしまったら、私たち日本の市民の人権をも危うくしてしまいます。「国益」よりも「人権」。私たちは、自分自身の権利を守るためにも、今回の韓国での判決を歓迎し、このような流れが国際的な潮流として、より堅固に定着していくことをめざすべきだと思います。


◆「日韓合意」で日本軍「慰安婦」問題は終わってはいない

 ~「日韓合意」では納得出来ず、怒った被害者が最後に起こした訴訟~


 韓国でこの訴訟を起こした日本軍「慰安婦」被害者たちは、この訴訟を起こすまでに険しい道のりを歩んできました。日本の裁判所に訴え、米国の裁判所にも訴え、国連にも訴えました。あらゆる手段を講じた末に、最後の手段として自国の裁判所に訴えたのです。また、日本政府は、「慰安婦」問題に関する日韓合意でこの問題は「終わった」のだと主張していますが、まさに、その日韓合意に納得できず怒った被害者たちが、この訴訟を起こしたのだという事実も忘れてはなりません。


 日本政府はこの判決を無視して上告しなかったため、判決は既に確定しています。政府が判決を誠実に履行するよう、共に声を上げてください。