ありし日のイワル・タナハさん






5月10日、台湾の最後の日本軍性暴力被害のサバイバーだったタロコ族のイワル・タナハ(中国名:蔡芳美)さんが天国へと旅立ちました(享年92歳)




コロナ禍でここ何年か台湾へ行けず、イワルさんの健康が気になっておりましたが、とうとう恐れていた訃報がもたらされました。





●イワル・タナハさんの被害状況

ワルさんは、1931年9月3日タロコ族の村で生まれました。生まれたときには霧社事件に巻き込まれて亡くなったという父はすでにおりませんでした。再婚した母親と義父の元で暮らしましたが、やがて母親が亡くなったため、結婚して伯母が住んでいた花蓮・榕樹に山を越えて移り住みました。



イワルさんは、1944年、自分の住む村の近くの日本軍の部隊で雑用(掃除・炊事・ボタンつけ、洗濯、洗濯物たたみ)などをするようにと日本人巡査にいわれ、他の女性4人と一緒に働きに出ました。みな既婚女性たちでしたが夫たちはみな、南洋に軍夫として出ており、イワルさんの婚約者も同じでした。
この部隊は「大山部隊」「倉庫部隊」といわれており、山に洞窟を掘り、軍用物資を保管していました。


倉庫として使われていたトンネル




最初は、約束通り雑用をし、給料10元が支給されましたが、そのうち、仕事が終わっても「帰ってはいけない、別の仕事がある」と言われ、残っていると、一人ずつ部屋から連れ出されました。


先に連れだされた人は帰ってきても何もいわず泣いているだけでした。
次に、イワルさんも呼び出され、普段は決してはいってはいけないといわれていた倉庫にしていた山の洞窟へ入るようにといわれ、真っ暗で何も中が見えない状態で、おそるおそる進んでいくと小さな明かりが見え、そこに兵隊が一人立っておりました。その兵隊がイワルさんに襲いかかったのです。イワルさんは驚き、泣きながら抵抗したのですが力ではかないませんでした。その兵隊が出て行くと次に3人の兵隊が入ってきたのです。



その後、他の女性たちも連れ出されましたが、帰ってきたときは鼻血を出していたり、顔に血がついたりしていました。イワルさんはその後抵抗したりするとベルトや鞭で何度もなぐられたり、蹴ったりされ、流産(妊娠していることを本人も知らないでいた)もしたのです。




1945年10月、部隊は突然いなくなり、やっと解放され、12月にフィリピンから帰った婚約者と結婚しました。


日本軍部隊でのことを夫に話せず、一人苦しみましたが、夫が1992年、癌になったとき、夫に隠し通すことに耐えきれず、ようやく話しました。クリスチャンであった夫は、妻をとがめたりすることなく、許して逝ったのです。(台湾の元「慰安婦」損害賠償・謝罪請求事件 訴状より)



自分が被害を受けた場所が、日常暮らしている部落の近くにあったということが、イワルさんにはさらに辛いことだったろうと思います。





●裁判の原告となって





裁判所前で報告


敗訴判決を受けて悲しみのイワル・タナハさん






1999年、台湾の、日本軍の性暴力サバイバーの女性9人(漢族5人、原住民4人)日本政府に賠償と謝罪を求めた裁判の原告の一人として何度も来日し、東京地裁で陳述をし、証言集会で静かに自分の思いを語りました。


熱心なクリスチャンであったイワルさんが、東京地裁の法廷で賛美歌を歌われたことを思い出して下さる方もおられるかと思います。

イワルさんの訴えはいつも穏やかなものでした。サバイバーの人たちに共通していることですが、未来の世代に同様な被害を受けることがないようにと静かな声音の中にはしっかりこめられていました。


熱心なクリスチャンとしての生を全うしたイワルさんは、今頃は神様のもとでしあわせになっていることと思います。



これで台湾のサバイバーは全員、天に召されてしまいました。
直接、証言をして下さるサバイバーがいなくなったのですが、阿嬤(アマー。台湾で「おばあさん」の意)たちが語った思いを忘れずに、未来世代に伝えていかなければと思っています。



(台湾の阿嬤たちを記憶し、未来につなげる会)