尹美香(ユン・ミヒャン)


(韓国国会議員、前正義記憶連帯・韓国挺身隊問題対策協議会代表)




1. だから、希望


労働、生命、平和の道を一歩一歩あるいている尹美香です。世界が共に記念する第9回日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを、30年間あきらめることなく日本軍「慰安婦」問題解決のために一途に歩んで来られた日本の市民の皆さんと共にできてとても嬉しいです。



30年前、依然として世の中の嘲弄と後ろ指が性暴力被害者に向けられていた時、勇気を持って記者会見で日本軍「慰安婦」の経験を語り、日本政府に謝罪と賠償を要求した金学順(キム・ハクスン)ハルモニ、韓国女性たちにしっかりしろと、しっかりしなければまた私たちのようにやられると、日本大使館前で絶叫した金学順ハルモニの声が今も私の心臓に緊張感を与えます。今この瞬間にも、あの言葉が身体の隅々に染みわたるような思いです。



故郷に帰ることもできず、被害の記憶がそのまま残る沖縄で、金学順ハルモニよりも前にその存在を人々の前に明らかにしていた裴奉奇(ペ・ポンギ)ハルモニの孤独な人生と声も、忘れずに一日24時間の私の日常の中に留めておこうと努力しています。



日本軍「慰安婦」にされた経験をやっとの思いで語ったけれども、アジアの被害者たちと一つの共同体になることことができないまま、日本社会と国際社会に自身の声を広く知らせることができずに生を終えた日本人被害者たち、また、声を出すことすらできなかった被害者たちの人生も忘れないように心に留めています。



「被害者たち」「サバイバーたち」という集団として共に伝えた声だけでなく、アジア各地で女性として生きることを願った一人ひとりがこの社会に伝えようとした声を読み込み、記憶し、その一人の人生の上に私が足を置いて立っているという責任も忘れまいと、その重みを足の甲の上に載せておきました。



そのような気持ちでこれまでの30年の活動を振り返ると、本当に素晴らしいサバイバーたちと長くも濃い道のりを共に歩んで来られたことに感謝し、その途上の人生がまだ終わっていないことが申し訳なく、長い歳月が流れたにもかかわらず、あきらめずにいる同志たちが金学順に次いで世界各地で#Me Tooを叫び、#With Youを叫んでいることに希望を確信します。



だから私は、今日も「希望」を語りたいと思います。



2. 途上での出会いは楽ではなかった


金学順の勇気に始まり、金福童(キム・ポクトン)の希望で笑顔の花を咲かせた30年の運動を振り返ると、一時も緊張感を手放すことのできない人生だったと思います。大笑いをしている時でさえ、緊張を手放すことができませんでした。



私たちが歩んできた道は、寂寞として孤独で怖い場所だったからです。それでもその道を一歩一歩、歩き続けることができたのは、その途上で出会った被害者たち、活動家たち、国内外で共に歩いてくれた同志たちがいたおかげでした。



どうすればハルモニたちが一人でも多く存命中に日本政府からハルモニたちの望む解決を引き出すことができるか、どうすれば70年前の過去の問題に2000年代を生きる現代人が関心を持つようにすることができるか、どうすれば青少年があまり重く思わずにハルモニたちの歴史に関心を持ち人権運動家の人生に入ってくるようにできるか、どうすれば韓国の女性たちが経験した問題、アジアの女性たちが経験した問題を世界が自分の問題としてとらえて連帯するようにできるか、そんなたくさんの悩みを、30年間、忘れたことがありませんでした。



金福童ハルモニは、ある水曜デモの日に「ピカーっとお日様が昇る日が来るよ」「ネズミの穴にも陽の光が入る日があるよ」と、希望を語りました。その後も希望を語り続けましたが、逆説的にも、その当時のハルモニの状況、そしてこの社会の状況は決してそれほど前向きなものではありませんでした。



国内的には2008年、ハンナラ党の李明博政権の時代でした。連日、労働者たちの解雇がニュースで流れていました。その日も、解雇された十数名の労働者たちが復職を求める労働組合のベストを着て水曜デモに参加していました。

日本政府は「65年協定」「アジア女性基金」で「慰安婦」問題は解決したと繰り返している状況でした。

2016年以降はこれに日韓合意が加わるのですが、被害者たちが求めてきた日本政府の犯罪認定、公式謝罪、法的賠償が黙殺されている状況でした。



日本で日本軍「慰安婦」問題関連の集会や会議があってハルモニたちと共に、あるいは私一人で日本に行くと、集会場の横の空間を日本の右翼団体が借りて対抗集会を開き、会場入口前で騒がしく「慰安婦」被害者を侮辱し人権を毀損していた時でした。


戦争と女性の人権博物館の角に「竹島は日本の領土」という木の杭を立てかけて行った日本の右翼団体の代表は、ブログにその行動をアップして「売春婦」博物館に杭を打ったと誇らしく喧伝し、同調する愛国者を募集し、挺対協事務所に「竹島は日本の領土」と書いたプラスティック製の棒を郵便物の中に入れて送ってきました。


尹美香代表宛に活動を直ちに中止せよという脅迫状が日本から送られてくることも度々でした。その封筒の中には、太極旗を背景にして男女がセックスをしているイメージ、太極旗の上に排泄する姿が赤裸々に描かれ、嫌悪感と侮蔑感を与えるものでした。



成田空港、関西空港、広島空港で入国手続きの際、荷物を待っている間に理由もなく調査室につれていかれ、長時間にわたって意味も無い尋問をされたりもしました。銃器類や麻薬類、巨額のドル紙幣の絵を示して所持しているかと荷物を全部開け、下着までのぞきこんで侮辱し、犯罪者扱いされたこともありました。



8月10日の韓国MBCのPD手帳という番組の取材過程で分かったことですが、李明博政権、朴槿恵政権の時代に、韓国の情報機関である国家情報院(国情院)が日本の右翼団体および日本の情報機関と内通していたというのです。私が日本に行ったら右翼団体が出てきて集会場の前でデモをするようにし、空港に対して「パンツまで脱がせて調べろ」と注文していたという証言が出て、衝撃を受けました。


日本軍「慰安婦」問題を解決するために活動する活動家であるだけなのに、自国の政府機関が自国の国民の生命を脅かし人権蹂躙を仕向けるようなことが起きていたのです。


私は今後、国を相手に刑事・民事訴訟を起こすつもりです。そんなことを一つ一つ確認していると、今こうして生きていることに感謝する日々です。



2011年には、戦争と女性の人権博物館建設のために寄付し、開館後にも定期的な寄付を約束していた在日同胞事業家が、東京にある駐日韓国大使館に国情院から派遣された総領事から、尹美香の夫はスパイだから尹美香が代表をつとめる限り挺対協を援助するな、もし聞かなかったら不利益があるだろうと言われたとして、仕方なく関係を切らざるをえないと私を訪ねて来て言ったこともありました。



国情院は2007年から2012年までの6年間にわたり、挺対協事務処長だった梁路子(ヤン・ノジャ)と代表だった私個人のメールを、同意や何らの事前通知もなく開けて見て、何らの容疑も発見できなかったので捜査は終了したという通知を突然送ってきたことがありました。


日本軍「慰安婦」問題はなぜ、活動家が情報機関に脅され弾圧される理由になったのでしょうか。

彼らは、もしかしたら一定程度成功したと言えるのかもしれません。

実際に何か起きるかもしれないという不安をいつも抱えていましたし、誰かが私の電話を盗聴しているのではないか、誰かが監視しているのではないかと思っていましたし、私のすべてが裸にされているような侮辱感、不安感は日本への出張を避けたい気持ちにさせていたのですから。



このような一連の経験を経て、私は日本軍「慰安婦」問題がどのような位置に置かれているのか身体で感じるようになりましたし、韓国政府にとっても、日本政府にとっても、日本軍「慰安婦」問題は困った問題なのだということを、よりはっきりと知ることになりました。私たちが歩んで行くべき道の前に、越えがたい大きな山が立ちはだかっているような感覚を覚えました。



ところが、そのような状況の中でも、金福童は「希望」を語り、吉元玉(キル・ウォノク)は「平和」を語っていたのです。

改めて考えると本当に壮絶な希望、本当に痛ましい平和です。退くところもなく、険しく危険であることを知りながらも、その山を越える途上で歩き続けるしかない、その人生の重みが感じられ、ますます申し訳ない気持ちになります。


希望は、偶然に訪れる奇跡ではないのです!



3. 被害者たちが歩んで来た道

―日本軍「慰安婦」問題に向き合う認識






日本軍「慰安婦」の歴史が隠蔽されていた半世紀の間、被害者たちは沈黙を強いられていました。それは、単に韓国の家父長的文化のせいばかりではありませんでした。その沈黙には多様な脈絡が絡んでいます。



日本軍「慰安婦」問題は老若男女だれもが拒否感を持たずに関心を持ち連帯できるテーマだから韓国社会の支援と連帯を得やすいでしょう?とよく言われます。


韓国人は「民族」的な問題に関心が高いから日本軍「慰安婦」問題にも当然、大衆的な関心が高くて支持と協力を得やすいと思う人が多いようです。韓国人が本当に民族的な問題に対して高い関心を持っているのかどうかについては別途議論する必要がありそうですが、ここでは論じないことにします。



現実は決してそうではありませんでした。運動の初期から挺対協は「民族団体」といえる団体と人々の攻撃と反対にぶち当たりました。

ハルモニたちに対して韓国社会全般から「恥ずかしい」女たちという声が出ましたし、徴用、徴兵など日本の被害の歴史の中に日本軍「慰安婦」問題は入れてもらうこともできず、独立記念館の被害史館に「慰安婦」問題を入れろという挺対協の要求が拒絶されるような状態でした。



30年前の1991年8月14日、金学順ハルモニが記者会見を開いて公開証言をし、1ヵ月後の9月18日、挺対協は被害者申告電話を開設しました。ところが1992年に私が挺対協に幹事(スタッフ)として入って活動を始めた時、「挺身隊は言えば言うほど民族の恥なのにどうして自慢げに騒ぐんだ」といった抗議電話が何本もかかってきました。


1992年1月8日、水曜デモを始めて以来、日本大使館前で出会ったおじいさんたちから「恥ずかしいこと」はするなという暴言や妨害行為を受けました。

そのようなことをされながら被害者たちは路上に立っていたのです。ハルモニたちは、そんな人生に半世紀もの間、独りで堪えてきたのです。にもかかわらず立ち上がったのです。


10年経てば山河も変わるという韓国のことわざがあります。もう変わったはずだと思っていた2006年、挺対協はソウル市から戦争と女性の人権博物館建設敷地として西大門独立公園内の小さな売店敷地の再建築承認許可を得ました。


ところが2008年、光復会や殉国先烈遺族会、民族代表33人遺族会と32の独立運動団体が反対の記者会見を開きソウル市内で反対集会をおこなって、ソウル市長室を抗議訪問する等を続けました。彼らは、ソウル市が独立公園内に日本軍「慰安婦」博物館建設を許可したことは没歴史的な行為であり、数多くの独立運動家と独立運動そのものを貶めるもので、殉国先烈に対する名誉毀損であり、日本によって受難した民族という歪んだ歴史認識を受け付けるものだと主張し、「最後の一人になるまで決死で阻止する」と述べました。



結局、これら民族団体の反対に遭って、審議を通過していたにもかかわらずソウル市は何年も建築許可を出しませんでした。そして計画は反故になり、他の場所に建設することになったのです。

当時運動の中心に立っていた吉元玉ハルモニは、その記者会見のことを知って悲しい涙を流しました。しかしそれでも、平和の歩みを止めることはありませんでした。


被害者たちに「可哀想なおばあさん」という被害者らしさを求め、「助けと救済が必要な」人扱いをするようなこともありました。記者のペンとレンズを通して大衆に伝わる姿は、主に被害者の涙と叫び、また時には日章旗をバックに拳を振り上げて怒鳴る「反日」の象徴のような代表性がつくりだされることもありました。


被害者たちが「被害者らしさ」を捨てて堂々と主体的に活動する姿を見せたり、その姿が報道されたりすると、本当の被害者ならあんなふうにはできないと言われ、挺対協が「北の指令を受けた偽の被害者を立てている」と言われて訴訟に発展したこともありました。



日本大使館前に太極旗を掲げて水曜デモに参加する人が時々いました。そんな時、私は特定の国家や民族を象徴する旗ではなく、被害者と共にあることを示すナビ(蝶々)の旗を掲げて参加してほしいと訴え、日本軍「慰安婦」問題を国家や民族の被害にフレームアップすることを警戒してきました。そのことで攻撃を受けることもありました。



それだけでなく、日本大使館の前に太極旗と日章旗、星条旗、時にはイスラエルの国旗まで持ってきて運動の中心に立っているハルモニたちを「偽者」だと主張し、正義連活動を日韓関係を阻害する活動、反米活動と非難し、北を利する従北だと攻撃することが繰り広げられるようになりました。そのような中で活動家たちの人権も踏みにじられ、危険にさらされる状況になりました。


このような経験から、日本軍「慰安婦」問題は「民族問題」だとか「女性問題」といった形で単純化できるものではないと実感しました。民族、性、階級、地域、国際政治関係など日本軍「慰安婦」の歴史が抱えており、またつくってきた関係性、戦後の隠蔽と沈黙の背景、沈黙が破られ被害者たちの声が拡散され運動が展開されてきた脈絡とつながっていると思うのです。日本軍「慰安婦」問題解決のための運動が深化し、多彩な分野と階層に広がれば広がるほど、国内を越えて国際社会へと拡散するほど、その多様な脈絡が、これまでに守られてきたものに脅威を感じさせ、私たちに対する烙印となり攻撃となって戻ってきたりしたのです。



挺対協は、日本軍「慰安婦」問題を人権と平和という普遍的な価値を内包した問題と捉えてきたので、国際連帯を通して声の連帯をつくりだし、それを通して他の性売買、性搾取の問題、戦時性暴力被害の問題の解決に影響を与え、人権と平和の価値が重要に見なされるように活動してきました。しかし、それもまた平坦な道ではなりませんでした。



アメリカ、フランス、イギリスなど他の民族を植民地化した歴史を持つ国を訪れ、その地域の女性たちと連帯活動をおこなう時、実は悩みが尽きませんでした。いろいろと工夫をしながら女性の人権と平和の問題として連帯活動をおこないましたが、韓国と日本の政治的な問題として理解し、他国の政治的な問題には介入しないという立場をとる人が多かったです。



一例として、パリでキャンペーンをおこなった時、被害者の話を聞いた後で「凄まじい人権蹂躙だが、私は日本が好きだ」と言う人がいました。「私も日本が好きですが、この問題はそういうこととは別問題なのです」と説明しましたが、そのまま行ってしまいました。人ごとのように「日本と韓国が仲良くすることを望む」など、私たちが望まないフレームはあちこちでつくられ、私たちはその中に入れ込まれてしまいました。



米国務省を訪ねた時には、日本軍「慰安婦」問題を女性の人権問題、平和問題と認識するのではなく、日韓問題、アジアの問題と認識して、それらを担当する人たちが懇談会に出てきました。そして私たちの話をメモして、私たちが知っている政治的な立場だけ述べました。日韓合意後はさらにひどくなりました。



むしろ被植民地の経験を持つ方たちに会う時には、余計な説明なしで共感と連帯が生まれました。普遍的な価値は、少数民族や少数者など多様な構成員が生きてきた歴史が集まって形成されるものなのだということを学ぶ過程でもありました。

つまり、地域と民族、その中の構成員が抱えている特殊性を知ることが重要だということです。

従って連帯には、それなりの時間が必要でした。



何よりも私たちにとって脅威だったのは、日韓合意の前後でした。日本政府がすぐに認めて謝罪・賠償すればもっとシンプルに終わっていた問題ですが、日本政府が否認し拒否したことによって日本政府に対する国際社会の批判の声が上がり、日韓関係が悪化すると、アメリカの介入が露骨になりました。

単に韓国と日本の関係で解決するのではなく、アメリカの圧力と介入が作用しているという事実を実感したのです。



この時から、日韓合意に反対しているがために、また別の攻撃を受けなければなりませんでした。より強い脅威を感じ、より大きな緊張の連続でした。その後に始まった攻撃は今も被害者と正義連の活動家たちが向き合っている現実となっています。



金学順の勇気、吉元玉の平和、金福童の希望が生まれた背景は、このように荒々しい道でした。


彼女たちは単に被害者だから輝いていたのではなく、そのような険しい道を歩いてきた活動家たちだから輝き、尊い存在として、英雄として位置づけられたのだと思います。


それほど荒々しく険しい途上で、サバイバーたちがあきらめずに30年間、路上の人生を送ってきたことだけでも既に勝利した人生だという解釈が力を持つ理由です。



何がその動力になったのでしょうか。

私ははっきりと言うことができます。

それは、同行者たちの連帯です。

韓国で、日本で、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、カナダ、世界各地で、「ハルモニたちの問題」ではなく、「私たちの問題」と考えて長い歳月、離れることなくこの道の上に立って歩いて来た仲間たちがいました。

道の上の希望はやっぱり偶然に生まれる奇跡ではないのです。



4. 沈黙を破った金学順たちの勇気


「挺身隊がなかったなんて話になりません。こうして私が現に生きているのに。日本は謝罪しなければなりません。賠償もしなければなりません」

金学順ハルモニが1991年8月14日の記者会見で言った言葉です。


誰か一人でも諦めずに一つの問題に関心を持ち続けて努力することも変化の中心になりますが、歴史の最初のページを開く役割がどれほど重要なものか、この運動を通して確認することができます。


日本軍「慰安婦」問題を解決するための運動が世界的な運動として拡大することができたのは、同時代を生きた一人の研究者の粘り強い努力が火だねとなり、その努力を韓国社会の変化へとつないだ女性運動があり、その運動に力づけられて火をつけてくれた被害者たちの#Me Tooがあったからこそでした。


私たちの運動にとって最も大きな転換点は、被害者たちが沈黙を破って自身を取り巻く韓国社会の抑圧的な構造の上に顔を上げて声を出した時にもたらされました。


そこで、最初に沈黙を破る勇気を出してくれた「金学順」という女性が日本軍「慰安婦」問題解決運動の歴史、戦時性暴力被害者問題解決運動の歴史において、「メモリアル」の意味を生み出し、世界の戦時性暴力被害者たちと現代を生きる私たちにとって英雄の座に立つことになったのだと思います。



1990年代初頭を振り返ってみると、民主化運動を経た後ではありましたが、韓国社会は依然として「女性」という単語を気まずがり、性暴力の問題についても被害者に沈黙を強いていました。

日本の植民地問題についても、徴用、徴兵など「おじいさん」たちの問題は時々新聞にも報道され、すでに声が出されていましたが、勤労挺身隊、「慰安婦」など女性の問題は隠蔽されていた時代でした。そのような中で最初の声を出すことがどれほど勇気のいることだったか、当時の韓国社会を生きた証人たちならば分かるはずです。



金学順ハルモニに初めて出会った当時、韓国教会女性連合会の総務だった尹英愛(ユン・ヨンエ)さんは、1991年8月14日の記者会見は韓国社会を騒がせたと証言しています(『挺対協20年史』)。

金学順ハルモニに8月14日の記者会見を提案し承諾を得た李美卿(イ・ミギョン)さん(当時の韓国女性団体連合総務)は「私は証言をするために名乗り出たのだから記者会見ができないはずがない」と、金学順ハルモニは迷うことなく決断したと言っています。



ハルモニは記者会見で日本政府に対し「私がこうして生きているのに、『慰安婦』を連行した事実はないと言えるのか」と声を上げました。そして、自身が生きている間に恨(ハン)を解いて欲しいと訴え、日本政府から公式謝罪と賠償を受け取らなければならないと言いました。

日本軍「慰安婦」として経験した被害事実を述べ、日本政府の公式謝罪と賠償を求める最初の声が持つ力は絶大でした。新聞で報道され「挺身隊」女性が生きているという話が広まり始めました。



ところが金学順ハルモニの健康状態は常に良くありませんでした、緊急入院することもよくありました。それで私が金学順ハルモニに会う場所は主に街頭や病院でした。

ハルモニは喘息の持病を抱えていたので、いつも三歩ほど歩くと止まってフーフー、また三歩ほど歩いてフーフー、ハルモニの口から出るフーという音は、息が切れて出される「ヒューヒュー」という音に聞こえました。


しかし、本当に驚くべきことに、日本大使館前に立ってマイクをつかむと、ハルモニはもう喘息患者ではありませんでした。話の途中で「ヒュー」という音を出して息をつく場面はありましたが、怖いものなしの気概を示し、加害者に立ち向かう被害者の堂々とした姿を見せてくれました。

「日の丸」という日本の戦争の象徴が未だに翻っていることについても憂慮と怒りを表明し、日の丸が被害者にとってどのような傷になるのかについても語りました。

韓国政府に対しても「当時は政府がない時にこんなことが起きたんだから、被害者が立ち上がる前に問題を解決するべきだ」と政府を批判し、1995年の社会党・村山政権の「女性のためのアジア平和国民基金」計画に対しても当事者として誰よりも強い声で「見舞金に反対する」と述べ、公式謝罪と法的賠償を求めました。



実は、1992年に挺対協の幹事(スタッフ)として活動を開始した私は、性暴力犯罪に対する法廷解決の形がどのようなものであるべきなのか、初めから知識を持っていたわけではありませんでした。そんな私にとって最初の教師は金学順ハルモニの声でした。


(金学順さん)


「韓国の女性たち、しっかりしなさい。しっかりしなければ、また私たちのようにやられますよ」


その声は、日本軍「慰安婦」問題をきちんと解決しなければ同じような犯罪が再発するであろうし、第2、第3の金学順がつくられ続けるということ、私たちの運動が進むべき方向を初めからそんなふうに指し示していたと思います。



同じく、私にとって日本軍「慰安婦」問題解決の教師は姜徳景(カン・ドッキョン)ハルモニであり、金順徳(キム・スンドク)ハルモニであり、金福童ハルモニでした。活動の中で出会った活動家、法律家、研究者たちから学ぶこともありましたが、最高の教師はサバイバーたちでした。


金学順の勇気が最初の扉を開けたとしたら、その勇気を変化に、闘いへとつないで公式謝罪と法的賠償を勝ち取る運動、韓国社会の各界各層との連帯へと拡大させた運動の主体は姜徳景ハルモニ、金順徳ハルモニ、朴頭理(パク・ドリ)ハルモニなど初期の水曜デモに一度も抜けることなく参加して日本大使館前に立った方たちでした。



5. 姜徳景の正義の解


1992年1月8日に水曜デモを開始しましたが、その後も、連帯と参加は低調でした。ハルモニたちと私を含む挺対協のスタッフ、そして挺対協の実行委員の中から1、2名が参加するだけということが多く、私たちの声は都市の騒音にかき消されてビルの谷間に埋もれてしまいました。通行人たちも見物しながら「挺身隊ハルモニ」について何か言いながら通り過ぎて行きました。それにも関わらず、その翌週の水曜日に再び必ず日本大使館前に出て来るハルモニたちでした。


ナヌムの家で共同生活をしながら誰かに手伝ってもらうこともなく自分でバスに乗って日本大使館まで来て、人数は少なかったけれども、堂々と大きな声を上げた方たち、今はもう誰も生きていらっしゃいませんが、この方たちを記憶していただきたいと思います。


(姜徳景さん)


映画『ナヌムの家Ⅰ』をご覧になった方、また最近日本でも翻訳出版された『咲ききれなかった花』をお読みになった方は、それが誰のことかお分かりだと思います。姜徳景ハルモニ、金順徳ハルモニ、李英淑(イ・ヨンスク)ハルモニ、孫判任(ソン・パンニム)ハルモニ、朴玉蓮(パク・オンニョン)ハルモニ、朴頭理ハルモニ……。初期のナヌムの家で共同生活をしていらっしゃった方たちです。


(姜徳景さんの絵「責任者を処罰せよ」)


画家として芸術活動をおこない共感を呼ぶ活動を誰よりも積極的にしましたが、映画、放送などでも中心に立つしかありませんでした。そのたびにサバイバーとして主体的な声を上げ、「問題解決とはこういうものだ」という基準を自ら打ち立てていきました。


ハルモニたちにもやはり誰か、ハルモニたちが解決の方向性を決定する上で影響を与えた教師がいただろうと思います。たとえ外部から影響を受けたとしても、ハルモニたちが叫ぶ要求は日本政府の公式謝罪と賠償でした。



忘れられないことは、ハルモニたちが病床においても、状態が少しでもよくなったりすると水曜日に日本大使館前に行こうと言ったことです。姜徳景ハルモニは、死を目前に控えた時にも、日本の市民に知らせなければならないと言って、有効期限の過ぎたパスポートを更新しようとしました。また、ICUにいる時にも、水曜日になると救急車に乗ってでも水曜デモに行くと言って病院関係者たちを困らせました。


その後、金殷禮(キム・ウンレ)ハルモニ、文必琪(ムン・ピルギ)ハルモニ、李容洙(イ・ヨンス)ハルモニ、黄錦周(ファン・クムジュ)ハルモニ、崔甲順(チェ・カプスン)ハルモニなどが水曜デモに出てくるようになり、日本政府と国際社会に向かって被害者の声を絶えることなく出し続けました。



1990年代の後半から水曜デモに一生懸命に出て来た黄錦周ハルモニの活動は、2000年を過ぎた後も続きました。

ハルモニは日本大使館に向かって、またその前にポリスラインをつくっている韓国警察に向かって、罵詈雑言を浴びせて「罵声おばあさん」と呼ばれていましたが、参加者たちに対してはいつも二度と戦争が起きないようにしなければならないと強調し、そのためにも日本政府は謝罪しなければならないと訴えました。しかし2006年末に健康状態が悪化し、それ以上、運動に参加できなくなってしまいました。それでも、被害者たちの活動は留まることがありませんでした。



ハルモニたちは、日本政府に対して事実を認めて謝罪し、賠償せよと言い、真相究明と責任者処罰、歴史教育と追悼事業を通して過ちが繰り返されないようにと要求しました。「再び私のような被害者を生まないために」必ず必要な措置だとおっしゃいました。


今でも、ハルモニたちの歴史認識、平和認識はどこから生まれたのだろうと思うことがあります。

金順徳ハルモニがある日、アメリカを信じてはいけない、ソビエトも信じてはいけない、日本は敗戦時に朝鮮から去る際、また戻ってくると言っていたから、私たちの問題をきちんと解決しておかなければならないとおっしゃったことが今も思い出されます。

歴史を体験してきた方たちですから、回答も歴史の中から、自身の経験から得たのだと思います。



過去30年間、挺対協運動が批判されたことの一つが、被害者たちには実際に「お金」が必要なのに挺対協が自分たちの政治的な目的を達成するために被害者の要求を無視して過度に原則論だけ固執し、問題解決を遅らせているというものがあります。これはあまりにも事実と違います。



アジア女性基金の償い金と和解癒し財団の支援金を受け取った被害者もいらっしゃいますが、そのお金をもらう前にはそのお金の性格について説明し、だから挺対協は反対の立場であることも説明しました。しかし結局はハルモニたち各自の選択でアジア女性基金を受領し、各自の意思で寄付もします。但し、そのお金を受け取ったからといって挺対協の生存者福祉活動がその方に対して中断されたりすることはありません。


アジア女性基金を受領した被害者を挺対協がいじめたという噂もまわっているようですが、2004年に訴訟を起こして挺対協に対して自分にはもう何もしないように要求し、裁判所でそれが決定された1人の方を除いて、他のすべての被害者に対して挺対協の福祉活動は続けられてきました。


もう一つ、自らの政治的目的を達成するために被害者の要求を無視したという非難もありました。

私は、2007年から挺対協の代表をつとめました。

最大の課題は、どうすればハルモニたちが一人でも多く生存している時に日本政府から被害者が求める解決を引き出すことができるか、でした。

日本で民主党政権が樹立された時、ほとんど毎日のように日本に行ったと言っても大げさではないように思います。今がチャンスだと思ったのです。ハルモニたちはどんどん高齢化し、訃報も続いていました。鳩山政権に対し、菅直人政権に対し、時には強く、時には切実に訴えました。官房副長官に直接面談したり外務省を訪問して面談したりしました。被害者たちが生きている間に歴史を認め公式謝罪と賠償をする道をつくるため、日本の国会議員や市民と共に連帯し必死の活動を繰り広げました。しかし、日本政府は変化するどころか、安倍政権への委譲で終わってしまいました。


その時にも被害者たちは日本政府の公式謝罪と法的賠償を求める声をゆるめることはありませんでした。同僚たちが問題解決を見ないで目を閉じていく状況で、生き残った方たちが活動を続けました。



そのような活動に対して、国連のラシダ・マンジュ女性への暴力特別報告者は2010年の報告書で、日本軍「慰安婦」問題解決運動は女性に対する賠償運動の中で最も体系的で充分に立証された運動だと評価し、にもかかわらず彼女たちに賠償が実現していないことは賠償領域において伝統的に女性に対する無視があることを示す代表的な例だと指摘しました。



6. 分列と葛藤を越えて


こうして、金学順ハルモニの公開証言は沈黙していた国内の日本軍「慰安婦」被害者に、挺対協連帯活動と合わせてアジアの被害者が沈黙を破る勇気となりました。同時に日本政府に謝罪と賠償、責任者処罰を要求して、被害者の人権回復を求める正義の声となり、被害当事者の人権回復を越えて人々の平和と共存のための叫びとなりました。被害者が国境を越えて自ら「戦時性暴力被害再発防止のためのナビ(蝶々)」となってコンゴ、ウガンダなど現在の武力紛争地域の性暴力被害者にも勇気をあたえられるよう世界に飛んでいきます。そうして被害者の声は韓国社会と国際社会に大きな変化を起こしました。



挺対協は1990年代には被害者らと共に日本政府に向けて公式謝罪と法的賠償、責任者処罰を実現するために日本政府と日本の議会に対応し、日本検察庁に責任者処罰を求めて告訴、告発状の提出を試みました。国際仲裁裁判所への提訴を試み、南北連帯とアジア被害国との連帯を通じて、国連とILO活動を行い、また、何人かの被害者は太平洋戦争犠牲者および遺族たちと共に日本国内法上の解決を求めるために日本政府を相手どった訴訟に原告として参加するなどの活動を行いました。



日本政府の謝罪と賠償要求活動を国内的に後押しするために被害者福祉活動、韓国政府の政策と制度で被害者支援樹立活動、韓国外交部が日本政府に問題解決を要求するよう求める活動、水曜デモと教育活動、市民社会団体と連帯活動などを進めてきました。


国内活動は成果をあげて、日本軍「慰安婦」被害者生活安定支援法(現在は日本軍「慰安婦」被害者生活安定支援および記念事業支援に関する法)が1993年に制定され、一時金4300万ウォン支給に毎月生活費支援(2021年の場合、国費で548,000ウォン、老人年金、地方自治体から追加支援、合計300-350万ウォン)、月300万ウォン内外で看病費支援、葬儀費支援、生活支援などが支給されています。



日本政府の犯罪認定と公式謝罪、法的賠償など日本軍「慰安婦」問題に対する日本軍の責任を確認し、ヒロヒト天皇らに有罪判決を下した2000年女性国際戦犯法廷は1990年代の活動の決算とも言えるものでした。国連など国際人権機関の勧告も、被害者の訴訟も法的責任問題として受け入れず、金銭的な問題として、見舞金問題として終結させようとする日本政府の態度に対して被害者らとアジアの支援団体が決議し、法的責任問題であり「お金」の問題ではないということを確認させた活動でした。


しかし、2000年法廷以後、日本の右翼の総決起を呼び起こし、歴史教科書の歪曲とアジア女性基金側は成果を上げるためにブローカーまで狩り出すなど目に余る活動が再び始まりました。

被害者の状況も変化していました。

女性国際戦犯法廷で戦犯に有罪判決を下しましたが、象徴的な意味と認識されており、被害者には何も得るものがないということに被害者間で不満が生まれました。被害者は何をしなければならないのか問うてきました。

その隙間を縫って日本のアジア女性基金側で基金受領被害者数を伸ばすためのブローカーの活動がより一層本格化しました。被害者と被害者同士を分裂させ、被害者と挺対協を分裂させました。最も厳しい2000年以後の活動が始まったのです。


被害者の名誉と人権回復のために積み上げてきた10年の活動の末に結局はアジア女性基金という「お金」が傷と葛藤をつくりだしていました。その傷を治癒して新しい運動の地ならしをしなければなりませんでした。


再び私たちに何ができるのかに対する答えを探さなければなりませんでした。その悩みの先に去る10年間の運動の歴史で体験した傷と葛藤を克服する「平和」、私たちだけの苦痛ではなく他の人々の痛みに共感して連帯する平和がありました。


そのために


1.戦争と女性の人権博物館建設委員会を発足してハルモニの名誉と人権の殿堂としての博物館を建設する活動を開始し、


2.被害者の福祉を「支援」よりも「関係形成」を通した「治癒と人権増進」に重点を置き、情緒的安定のための支援活動等を通して平凡な日常の幸福を享受することができる活動、平和のウリチプ(我が家)の開所、一般的な老人療養施設ではない、治癒と憩い、自己開発、人権活動家の安息の空間としてシムト(憩いの場)を運営しました。


3.南北連帯、アジア連帯など再び日本軍性奴隷制問題解決のための連帯活動を積極的に始め、


4.米下院決議採択をはじめとしてオランダ、カナダ、ドイツ、英国を含む欧州議会決議採択のためのキャンペーンを推進し、被害者の要求が実現されない限り私たちもあきらめずに最後まで闘うということを被害者たちに分かってもらえるように努力しました。


5.国家を超越して戦時性暴力被害問題と連帯、国内の性売買被害者問題など女性の人権運動との連帯、ベトナム、米軍基地村など解放後の韓国の歴史の中で起きた性暴力問題などと連帯する運動として拡散しました。日本軍「慰安婦」問題は、韓国社会の誤った構造を変える運動となり、世界の戦争に反対する生存者たちとの連帯運動に変わっていきました。



再び10年が過ぎて、日本軍「慰安婦」問題解決運動はあらためて国内外の注目をあびることになり、韓国政府の外交的な努力義務を引き出すことができました。

2011年8月30日、憲法裁判所で韓国政府が外交的努力をしないことに対する違憲判決があり、国連人権理事会では再び慰安婦問題の「見舞金」方式ではない「法的賠償」を求める議論と決議採択が続きました。

10年の努力の末に2012年5月5日、戦争と女性の人権博物館が開館に至りました。


水曜デモも主管団体を拡大して青少年など多様な分野で共に連帯する広場になり、そのために小・中学校、高等学校教師たちとの連帯を通じて日本軍「慰安婦」問題に関心を示し参加する層が拡大し始めました。


600回水曜デモ以後はデモ方式と内容に変化が起こりました。日本政府に被害者と挺隊協の7つの要求を伝達することで教育と連帯、韓国社会の変化に重要性を置いて、水曜デモ主管団体も市民団体を中心に青少年、青年世代に拡散させました。


700回水曜デモの時には世界各地で連帯する集会として組織し、駐韓日本大使館前では700という数字に意味を付与してケーキとロウソクの灯を準備して700回になるまであきらめなかった私たちは十分に勝ったし、祝うだけのことはあるとして歓呼しました。そんな風に中断することのなかった水曜デモは年を重ねるほどに参加者が増え、教師たちは学生たちと共に参加し、体験学習の場として活用されたりもしました。


2011年12月14日、1000回を迎え、1000回水曜デモの場には「平和の碑」が建てられ、もうこれ以上共に立つことができなくなった亡くなられた被害者の空いた椅子を記憶し、その空いた椅子が私たちの連帯を決意する活動として継承されていきました。


2012年3月8日にはナビ基金を作ってコンゴとウガンダなど武力紛争地域で性暴力被害者を支援して連帯する活動を直接実現し始めました。過去の課題と現在の課題の連帯、アジアとアフリカ女性たちとの連帯、アジアとヨーロッパ女性たちとの連帯が直接活動の場でつながったのです。


そして、ついにそのような私たちの活動の歴史を込めた戦争と女性の人権博物館が2012年5月5日に開館し、人権と平和の価値を学ぶ学校として、人権と平和を実現するために行動するセンターとして博物館が活動をスタートさせました。


7. 吉元玉の平和


2000年代以降、ハルモニたちの死が相次いでいた頃、吉元玉ハルモニが活動家として参加するようになりました。

2002年から活動を開始した吉元玉ハルモニは「私は他の方たちよりも遅く出てきたから、もっと一生懸命にやらないと……」と言い、いつも先に活動を開始した被害者たちに対して申し訳ないという思いを持っていました。ハルモニのメッセージは、人々の胸を熱くしました。いつも他者の痛み、自身の反省から話を始め、人々に連帯を訴えかけました。心の温かい平和運動家でした。


(吉元玉さん)



南北分断の壁の上にも、ハルモニは堂々と立ちました。自身が13歳の時に「慰安婦」にされた後、帰ることができなかった故郷の平壌に、2008年、私と一緒に行きました。日本軍「慰安婦」の被害に、また別の歴史の痛みが重なっていることを訴え、南北統一問題にも関心を持つよう人々に訴えました。


米軍基地村の女性たちには「沈黙していても歴史はなくならない」と言い、「韓国政府の過ちに対してはきちんと要求すべきだ」と語りかけました。韓国軍の性暴力を受けたベトナム人被害者に対しても、在日の朝鮮学校の生徒たちに対しても、語りかけました。ハルモニの平和は戦争のない世界、少数者も、弱者も差別されない世界、分かれているものが一つになる世界でした。


平和の少女像を建立する過程で、戦争と女性の人権博物館を建設する過程で、ハルモニは「私と同じような痛みを子どもたちが再び経験するようなことがあってはなりません」というメッセージを発信しながら全国各地を巡回し、オーストラリア、カナダ、アメリカ、欧州連合議会で決議採択キャンペーンを展開し、ベルギー、イギリス、オランダなど世界各地をまわりました。オーストラリアを訪れた時には、ジャン・ラフ・オヘルネさんと連帯してオーストラリアの学生、市民、国会議員たちに二度と戦争が起きてはならない、私たちのような被害者を生んではならないと訴え、カナダには数年にわたり毎年足を運んでカナダの若者や歴史教師たちの平和教師として活動しました。彼女の活動に接したイギリスの歌手は歌をつくり、国家。民族、地域を超越した連帯を導き出しました。


そしてついに、幼い頃から抱いていた歌手への夢を2017年に実現し、「吉元玉の平和」というCDを出すまで吉元玉の平和は停止することなく続きました。


ハルモニはいつも「私をこんなふうに90歳まで生かしてくれているのは、私に与えられた使命があるからだと思う。その使命を尽くしてから来いという意味だと思うの」と言い、自身の人生を信仰の力と考えてもいました。



8. 金福童の希望


吉元玉ハルモニの平和が寂しくなった頃、金福童ハルモニが釜山での10年間の休息を終えて平和のウリチプへと居を移し、活動の中心に踊り出ました。韓国の解雇労働者、農民問題など民衆の問題にも関心を持って連帯し、韓国の市民運動家としての人生を開始したのです。

政府の過ちについてはインタビューや水曜デモの発言などを通して批判し、大学生の活動を支援して平和ナビ組織をつくることにも尽力しました。


(金福童さん)


水曜デモで、日本で、アメリカで、ヨーロッパで、国連で、ハルモニの活動分野は労働者、農民、障害者、セクシャルマイノリティ、移住民など壁がなく、基地村女性には「姉さん、金福童」として、ウガンダやコンゴ、コソボなどの戦時性暴力被害者たちにはお母さんとして、英雄として、力になりました。

日本で少数者として差別され日本の植民地未清算の象徴として残され未だに差別と弾圧の中で生きている在日朝鮮人社会に希望を伝える活動家になりました。


アメリカ各地に平和の少女像を建てる活動の支援と連帯者として、日本の東日本大震災の被災者には支援金を寄付し、戦時性暴力被害者を支援するナビ基金の設立者、寄付者として活動を展開しました。生涯をかけて貯蓄した財産を朝鮮学校の生徒たちのために奨学金として出し、正義記憶連帯に金福童女性平和賞基金も寄付しました。


女性平和活動家を支援し養成する金福童女性平和基金を正義連に寄付し、直接活動も繰り広げました。未来世代のために基金を造成し、日本軍「慰安婦」問題の解決と戦時性暴力被害者たちのための活動に人生を燃やし尽くしました。


ハルモニの活動は2015年、国境なき記者団とAFP通信が選ぶ「自由のために戦う100人の英雄」に選ばれて冊子に掲載され、2012年には米カリフォルニア州グレンデール市議会から勇敢な女性賞を受賞、2015年には大韓民国国家人権委員会から大韓民国人権賞国民勲章を受与、2017年にはソウル特別市の名誉の殿堂に選定され、2017年<Women’s Initiatives for Gender Justice>の「性平等遺産の壁」に選ばれ、2019年には正しい義人賞受賞、2019年には韓国女性大賞を受賞しました。


金福童ハルモニにとって最も厳しい状況は2015年の日韓合意だったと思います。

再び国連に、米国に、ヨーロッパに飛び、日韓の政府間で発表された合意は「被害者が望む解決ではなかった」と説明しなければなりませんでしたし、被害者を排除した合意だったのだということを伝え、被害者が望むのは日本政府の犯罪認定と公式謝罪と賠償なのだと訴えなければなりませんでした。結局、日韓政府が「終わり」を宣言したことに対して、再び希望を花開かせました。


癌と闘って病床にいる時にも、日韓合意で設立された和解癒し財団の解散を求めて、外交部長官や大統領に直接訴え、実際に和解癒し財団の解散決定を導き出しました。


2019年1月28日、ハルモニはこの世を去りましたが、ハルモニが病床で明るい笑顔を浮かべて「誰が何と言っても安倍が負けた、私たちが勝った」とおっしゃった言葉は正しかったと思います。


変化に気付かず、間違った過去に留まっている日本政府は負けたのです。間違った過去を解決するために沈黙を破り、正義を打ち立てるために世界中を駆け巡って加害者に向かって謝罪せよ、賠償せよ、責任者を処罰せよと叫んだ被害者たち、自らが属する共同体がおかした過去の過ちについて共同体の一員として謝罪し連帯活動をおこなった被害者たち、自身の被害に留まることなく、未だに朝鮮半島をはじめ世界各地で紛争が続いていることに気付き、戦時性暴力被害者と連帯して世界の女性たちと力を合わせた被害者たち、被害者たちが勝ったのです。


そして、その被害者たちの傍らで、時には後ろで、時には前で共に歩み、30年もの旅程にもかかわらずたゆみなく前進している私たち。

すぐ横でヘイトスピーチが叫ばれ侮辱的な言動を取られても、堂々と力強く我が道を生きることをあきらめない私たち。


金福童にとって希望は、そんな私たちだったと確信しています。

死を目前にして「ここにも希望がまた戻ってくるのかな?私は希望をつかみ取って生きている。私の後についておいで」と言えたのは、ハルモニの最期を見守る私たちが「金学順の勇気」を記憶し、「吉元玉の平和」を成し遂げ、「金福童の希望」を生きていくだろうと確信していたからだと思います。


9. 私たちが切り拓いていくべき道


30年間、本当にお疲れ様でした。

一度、振り返ってみましょう。

30年前の日本政府と現在の日本政府との間に変化がありましたか?

1993年、河野談話という進展がありましたが、それさえも安倍政権になって「強制連行を示す記述はない」と閣議決定で公式化した日本政府です。

このように変わらない日本政府を相手に、壁を扉と考えて一生懸命に闘って来られた日本の市民こそが私は希望だと思います。諦めない人がいるならば、その一人の夢と活動を他の誰かが引き継いで声を上げ、いつか日本社会が民主化を成し遂げた時、過去清算の課題は必ず経なければならない過程となるでしょう。


今、改めてハルモニたちの声に耳を傾け、彼女たちが持っていた前向きな力、積極性、希望を私たちが引き継いで行けたらと思います。

「証言をするために名乗り出たのだから記者会見ができないはずがない」金学順。

「私たちがあんなふうに騒がなかったら、この問題がここまで来ることはなかったでしょう」金福童(挺対協DVD『忘れてはならない、絶対に。彼女たちの物語』2002年)。

「私たちが出て行かなかったら日本大使館が何て言うか分からない。それに、若い人たちも力が入らないでしょう。私たちの問題なんだから、私たち被害者が当然先頭に立たないと」吉元玉(ある寒い冬の水曜日に)

「謝罪なしには、私たちが全員死んでも終わらない」吉元玉(2008年『京郷新聞』)

「日本政府は私たち対してはたらいた罪を告白して、謝罪し、賠償しなければなりません。今も、世界各地で女性への暴力被害者が生まれています。過去の過ちが正しく解決されていないから、女性への暴力もなくならないんです」李容洙(米下院決議採択のための公聴会)

「私たちは、日本政府が真実を明らかにし、謝罪し、賠償するまで、最後に一人になるまで闘い続けます」姜徳景。

「私たちの問題だけでなく、世界各地で私たちのような苦しみを味わっている女性たちを助けて、私たちと同じようなことが再び起きないように一緒に力を尽くして欲しい」


私たちに道を示してくれたハルモニたち。


今、私たちは次世代に対して、また依然として性暴力に遭って沈黙していたり沈黙を強要されている人々に対して、どのような道を示すことができるでしょうか。