〈資料〉日本軍業務日誌に記録された「慰安所」設置の痕跡 「金原節三の『陸軍省業務日誌 摘録』から見る日本軍当局の「慰安所」設置計画」
ウェブマガジン <キョル>編集チーム 2026-05-07
1993年、日本の民間研究団体「日本の戦争責任資料センター」傘下の「従軍慰安婦研究部会」は、1ヶ月にわたり防衛庁防衛研究所図書館の所蔵資料をくまなく調査した。その中には、陸軍省医務局に勤務していた金原節三が戦中に記録したものを戦後に整理した資料『陸軍省業務日誌 摘録』がある。1993年以前は非公開だったため、アクセスが難しかったこの日誌を綿密に検討した吉見義明教授は「摘録」を通じて、陸軍当局が慰安所の設置に直接関与していたことを明らかにした。資料には軍首脳部がなぜ慰安所を必要とし、どのように設置するかを計画し、実行に移したかが生々しく描かれている。吉見義明教授の『陸軍中央と「従軍慰安婦」政策』を基に、ウェブマガジン『キョル』の読者が読みやすいように再整理した。
[ある日本軍幹部が作成した業務日誌]
『陸軍省業務日誌 摘録』(以下『摘録』)は、全35巻からなる膨大な記録である。この日誌を作成した金原節三(1901~1976)は、東京帝国大学医学部と陸軍軍医学校を卒業し、1937年に日本陸軍省医務局医事課員、1941年に医事課長を経て、1943年まで陸軍省に勤務した。その後スマトラやビルマ、仏領インドシナなどで各軍の医務部長として勤務した。戦後は公職から追放されたが、1955年に陸上自衛隊の准将に任命され、1961年に退役するまでその大半を軍で活動した。『摘録』の前編(1939年3月12日~1941年11月19日)は陸軍省医師課員時代のもの、後編(1941年11月20日~1943年9月11日)は医師課長時代に作成されたものを戦後に再整理したものである。この日誌には、陸軍省局長会報、課長会報、医務局会報など、各種会報における陸軍省幹部たちの報告内容が詳細に記録されている。他の資料では見られない貴重な内容である。
『摘録』には陸軍当局が「慰安婦」を配置し、「慰安所」の設置を指示した経緯が詳しく記されている。これは関連内容を綿密に追っていくと、「慰安婦」政策に対する陸軍当局の直接的な関与を確認できるという意味でもある。
[写真1] 『摘録』全編1-(カ)の表紙(出典:東北アジア歴史財団編、『日本軍「慰安婦」問題資料集(1) – 「慰安婦」動員と慰安所の設置』、283ページ)
[日本軍内の「風紀の弛緩」と性病の蔓延]
日中戦争期、日本陸軍当局は軍紀・風紀違反と性病の拡散を深刻な問題として認識していた。これは当時の「慰安所」設置の主な動機と目的が、日本軍人の強姦防止、軍人への性的「慰安」の提供、性病予防であった点と直結している。
まず日本軍の軍紀違反問題を見てみよう。『摘録』によると、1939年の陸軍省局長会報において、兵務局長は「北中南支軍では依然として軍紀違反が後を絶たない」と指摘している。続いて1941年8月には法務局長も上半期の犯罪状況に言及し、逃亡、軍用物資の遺棄、勤務離脱、略奪、窃盗、文書偽造、詐欺、横領、収賄、強姦など、軍法会議に付託された上半期の取扱件数が1,900件余に達すると報告した。彼はこうした数値を根拠に軍人の違法行為が後を絶たないことを懸念した。実際に発生した規模に比べて軍法会議に付託される件数が少なからず縮小されていた可能性を考慮すると、軍人の違法行為に対する軍当局の懸念は相当深刻であったと推測できる。慰安所はこうした軍紀違反の状況を緩和するための措置として検討された。1940年に中国東北地域を視察した陸軍省医務局長の三木良英は当時、前線部隊で軍人の脱走や暴行が相次いでいるのは精神的な安定がないためであると把握し、その対策として「慰安団」の派遣を要求した状況を記録している。
軍紀・風紀違反事件において特に注目されるのは、頻発した強姦事件である。『摘録』は開戦後に強姦事件が頻発したことを示している。1942年2月の法務局報告によると、マレーシアを担当した第25軍から強姦事例が報告され、フィリピン方面でも多数の強姦が発生した。しかし、マレーシアやフィリピンの状況について「支那事変に比べれば少ない」と述べていることから、軍当局も中国戦線でどれほど多くの犯罪が起きていたかをよく把握していたことが確認される。
[1942年8月12日の局長会報における大山法務局長の報告]
南方での犯罪610件。強姦罪が多い。中国から転用された部隊で多い。慰安施設が不十分。監視・監督の不備に起因する。拘置所ではどこでも200人を収容しているが、わずか3、4人の法務官が処理している。
大山法務局長の報告から明らかなように、軍当局は頻繁な軍紀違反や強姦事件などが発生する原因として、不十分な慰安施設を指摘しており、こうした認識から「軍慰安所」がその対策として次第に積極的に検討されるようになったことが分かる。また、1939年4月15日の陸軍省医務局課長会報において、第21軍軍医部長が報告した内容は、陸軍当局が性病予防のために「慰安所」という発想を思いついた状況を物語っている。
性病予防のため、兵士100人につき1人の割合で慰安隊を輸入する。
1,400~1,600名。治療は博愛病院で行い、
その費用は売春宿の経営者が負担する。梅毒検査は週2回。
これは当時広東に駐留していた第21軍が兵士を増員する過程で、「慰安婦」を中国以外の地域から「輸入」しようとしたこと、そしてその動機が「性病予防」であったことを明らかにしている。
当時、性病が一体どれほど蔓延していたから「慰安婦」の導入が必要だと言われたのだろうか。1940年2月の「軍医部長会議の状況報告」によると、北中国方面軍では専門病院が必要となるほど性病が深刻な状況にあった。第19・20師団で発生した性病患者は985人に上り、脚気病や伝染病、マラリアと同程度の多さを記録した。性病は入院から完治まで長い時間を要したため、軍としては脅威的な問題とならざるを得なかった。このように『摘録』の記録を通じて、日本軍当局が内部の規律の緩みと蔓延する性病に対抗し、「軍慰安所」の設置を解決策としていたことが確認できる。
[「慰安所」の設置]
日中戦争期間の4年5ヶ月の経験を基に、日本陸軍当局はアジア太平洋各地に「慰安所」を設置する方針を打ち出していった。1941年7月26日の記録がこれをよく物語っている。
1. 深田少佐による、蘭印(オランダ領東インド)の衛生状況視察報告。
(1) 蘭印作戦に伴う衛生上の留意点
(中略)
6. 現地に居住する土着民に対しては、親身になって誠実に接し、我々に信頼感を抱かせるよう、言動に留意すること。イスラム教徒が多く一夫多妻制である点もあるが、貞操意識も強い。万が一、強姦などを犯して日本軍の規律に対する不信感を抱かせることのないよう、厳重な注意を要する。一方、原住民は生活苦により売春を行う者も多い。しかしバンドン(Bandung)などでは性病が多発しているため、村長に割り当てて厳重な梅毒検査を行い、慰安所を設置する必要がある。
[写真2] 『摘録』の一部。上記の引用文の内容が記載されている部分である。(出典:東北アジア歴史財団編、『日本軍「慰安婦」問題資料集(1)―「慰安婦」動員と慰安所の設置』、473~474ページ)
記録によると深田少佐は1940年9月から翌年6月までバタビア(現ジャカルタ)で開催された第2次日蘭交渉に参加し、オランダ領東インドを占領するために必要な衛生視察を密かに行った。視察後、彼が下した結論は、占領後に日本軍人による強姦や性病を防止するため、現地でいわゆる「売春婦」ではない女性を集めて慰安所をつくろうというものであった。「村長に割り当てて」という言葉から、事実上、強制的に女性を集めようとしたことがうかがえる。
陸軍当局は強姦事件が相次ぐや特別休暇や結婚斡旋、家族同伴などの導入を検討したこともあった。しかしこうした対応策が実施されたかどうかは不明である。実際に陸軍当局が積極的に実行に移したのは慰安所の設置であった。1942年9月の課長会議では、「将校以下の慰安施設」を中国・サハリン・東南アジア・太平洋地域の400カ所に設置したという報告が確認できる。 すでに1937年以降、中国で「慰安所」が大量に設置され、東南アジア各地でも同様であった状況から推察すると、このような発言は軍当局による慰安所の追加設置計画と読み取ることができる。すなわちそれまで派遣軍に任せていた慰安所の設置を、1942年8月以降は陸軍省が自ら、直接行うことにしたという意味として解釈できる。吉見義明教授は、この時点から「慰安婦」が派遣軍ではなく、軍当局の直接統制下に入る時期に入ったと分析した。
しかし陸軍省が「慰安所」の設置を開始した後も、軍紀・風紀や性病問題は依然として悪化の一途をたどっていた。1942年12月の『医務局会報』によると南方軍の性病患者が増加しており、慰安所を拡張すべきであると伝えている。幹部の「自粛自戒」が徹底されていないという報告もまた、軍紀・風紀が引き続き悪化していることを示している。翌年の2月と4月に発行された会報でも、「強姦、逃亡などの増加に加え、将校による犯行の増加」や「南方には5,000人の性病患者がいる実情」が報告されている。このように問題が全く解決されていない状態で慰安所は増え続け、「慰安婦」の数もそれに比例して増加した。
[『摘録』が語るもの、そして残された課題]
吉見義明教授は、『摘録』の分析を通じて、以下のいくつかの事実を明確に明らかにしている。
第一に、アジア太平洋戦争の開戦以降、出征先の派遣軍だけでなく陸軍当局までもが慰安所の設置に直接乗り出し、その指導と統制によって、アジア太平洋各地に多数の慰安所が設けられたということである。
第二に、慰安所が作られた核心的な背景には、日本軍による多数の強姦事件や軍人の間に蔓延していた性病、そして略奪と暴力が横行していた劣悪な戦場生活が存在していたという点である。したがって、慰安所の設置と運営は、日本軍人の強姦防止、性病予防、および軍紀の弛みを収めるため、すなわち日本軍人に対する性的「慰安」の提供を目的としていた。
最後に、オランダ領東インド(インドネシア)において、現地の女性を強制徴集しようとする陸軍省の計画があったことなどが、資料を通じて明らかになったという事実である。
長らく業務日誌『摘録』は非公開資料であった。一人の軍人が残した業務日誌だけでも、慰安所と「慰安婦」動員に関してこれほど多くの事実が記されているのであれば、防衛庁防衛研究所図書館に残されている数千冊の業務日誌・従軍日誌を通じては、どれほど多くの事実を解明できるだろうか。まだ公開されていないこうした日誌類を調査すれば、日本軍「慰安婦」問題の真相解明は急速に進展するだろう。これとともに防衛研究所図書館以外の防衛庁所管資料をはじめ、警察資料、朝鮮総督府・台湾総督府などに関する陸軍省・内務省資料、労働省・厚生省・大蔵省などが所蔵している非公開資料の調査・公開が重要である。これらの記録の全面的な公開と十分な調査研究が伴わなければ、日本軍「慰安婦」問題の真相が適切に解明されたとは言い難いだろう。
イラスト ⓒイ・サガク
※原著
吉見義明、「陸軍中央と『従軍慰安婦』政策:金原節三の『陸軍省業務日誌 訃録』を中心に」、『季刊 戦争責任研究』創刊号、日本の戦争責任資料センター、1993年。 *
本稿は、東北アジア歴史財団翻訳叢書22『日本の軍「慰安婦」研究』(2011年、日本の戦争責任資料センター編)に翻訳・収録されている
※吉見義明
日本の歴史学者。日本帝国の戦争責任、植民地支配、「慰安婦」問題、そして民衆の戦争体験を主要テーマとして研究を行ってきた。1990年代初頭から、日本軍の慰安所制度と国家の深い関与を立証する膨大な公文書を発掘し、「慰安婦」問題の実体と被害者の人権、日本政府の責任の究明に先頭に立って取り組んできた。日本軍の慰安所運営と政府の介入を立証する公文書を公開することで、「慰安婦」研究の基礎を確立した。主な著書に『従軍慰安婦資料集』、『従軍慰安婦』、『毒ガス戦と日本軍』、『草の根のファシズム』、『焼跡からのデモクラシー』、『売春買春する帝国』、『日本軍慰安婦』など
(訳 権龍夫)